ことばの海

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「目」【終】

悴んだ指が、家の鍵を何度か遊ばせる。ドアノブに手を掛けると、冬が来たことを告げる音がした。

「ちっ。」

芳賀はイラついていた。鍵をうまく開けられなかったことでも、静電気を受けたことでもない。課題があるという現実に目を向けたからである。小さな苛立ちが、悴んだ手や静電気のせいで何倍にも膨れ上がり、彼に乱暴にカバンを放り投げさせるに至った。明日までに終わるのだろうか、それだけの不安でも、ひとりの人間を追い込むには十分なのだと彼は思った。

誰かに救いを求めなければ。深夜にひとりだけで課題に取り組むというのは、思ったよりも孤独なものなのである。都会では普段、自分が望む以上の人間と、ほぼ強制的に関わらなければならない。それでいて、安アパートのワンルームに帰ってくれば、その関わりの中から放り出されたような気さえする程の孤独が襲ってくる。

カバンから転がり落ちた林檎をじっと見つめながら、芳賀は自分の頭が空っぽになっていくのを感じた。このまま時間さえ止まってしまいそうだったが、吐く息が白いということに気づいてエアコンをつけた。ついでに電気コタツのコンセントを入れて、そこに潜り込んだ。外界の冷たさから隔絶された自分の部屋は、芳賀の孤独感を一層強くさせた。その孤独感に苛まれつつ、だらだらと温みを貪っていたら、いつの間にか時計の針がてっぺんを越えていた。

コタツとは一人暮らしの部屋には絶対に置いてはいけない家具なのだ、と芳賀は思う。この家具は、律してくれる他人が居てこそまっとうな使い方ができるのであって、その存在が無ければただ単に怠惰な人間を作り出すものでしかない。肩までどっぷりと人工的な温もりに浸ってしまえば、身体は言うことをきかなくなる。手の届く範囲、目に見えるものだけが世界の全てになる。そしてトイレに行くことでさえ、平安時代の航海のように非常に大義なものになるのである。そう考えると、やはりコタツなど捨ててしまった方がいいに越したことはないのだが、その暖かさの虜となってしまった今、最早そんなことは実行できようがないのである。

そろそろ「目」についての課題に取り掛からねば、という焦りが芳賀にパソコンの電源をつけさせた。真っ白な画面に、何を書けばよいのか。この期に及んで全く考えが纏まっていない自分に腹を立ててみても、ただ無為に時間を使うだけである。

その時、スマートフォンの通知音が鳴った。

『起きてる?』

咲樹からだった。咲樹とは大学に入ってすぐに付き合いだした。先月、五か月記念といって旅行に行ったばかりで、何となく文系の大学生らしいことをしている自分に、何となく満足できている。

自己満足というのは大切で、自己に対して一点でも満足感があれば、人間は意外と折れずに生きて行けるものなのだと思う。例えそれが、周りから見れば不快で非常識だったとしても、人間はそうしていかなければ生きてはいけない。 だから、いくらそういう人間に目くじらを立ててみたところで、同じような奴らはあとからあとから沸いてくる。

『起きてるよ』

結局のところ、人々はそういう奴らを叩いて、少しの優越感と他者との一体感を味わえればいいのである。そういう意味では、こいつは役に立っているのだな、とスマートフォンを握りしめる。

そういえば、咲樹も同じ講義をとっていたのだった。彼女に聞けば、或いは何かしらのアドバイスをもらえるかもしれない、と芳賀は思い至った。

『ちょっと電話できないかな』

意外にも、彼女の方からお誘いがあった。こういうふうに、突然連絡を取りたがってくるところが、咲樹の可愛らしいところでもある。毎日大学で顔を合わせているというのに、全く困った彼女である。

電話をかけると、ワンコールも終わらないうちに咲樹の声に切り替わった。

「ごめんね、こんな夜遅くに」

「大丈夫だよ。今ちょうど課題をやっているところだから」

言ってから後悔した。大概こういう時、咲樹は気を遣って電話を切ろうとする。こちらも合意のもとに電話をしているわけだから、そんな気遣いは無用なのだが、それも彼女の性分なので仕方あるまい。

「そっか、邪魔しちゃったかな。でも話したいことがあるんだ」

いつもとは少し様子が違うということに、芳賀はすぐ気が付いた。

「俺も聞きたいことがあるんだよ。課題のことでさ…」

「あ、その前に私の話から聞いてもらっていいかな」

普段は控えめな彼女が、ここまで強引に自分の話を通してくることがあっただろうか。芳賀は課題を進めたいという思いに苛立ちはじめていた。

「そんなに大事な話なのか?」

回りくどいのはやめて欲しい。いつも咲樹はそういう話し方をする。あまり好ましいものではないな、と思いつつも、いつも我慢していた。

「大事だよ。とても大事」

「で、何の話なの」

自分の苛々が増幅していくことを、芳賀はひしひしと感じていた。どんな話なのかは知らないが、いい加減にしてくれないだろうか。

「あのさ、こう、何て言うか」

「なんだよ」

暫しの沈黙が流れた。咲樹の息遣いだけがスピーカー越しに伝わってくる。

「私たち、別れた方がいいと思う」

突然すぎた。その言葉は芳賀にとってはまさに寝耳に水であった。何しろ、彼にとってはこの交際は順調に進んでいるものにしか思えなかったからである。

「は?」

芳賀は、この言葉を絞り出すことで精一杯だった。現実に思考が追いつかず、様々な考えが複雑に絡まった結果、苦し紛れに出てきたのがこの言葉だった。

「芳賀くんはね、私のこと見てくれてないんだよ」

「いやいや、何を言って・・・」

見ていない。見ていないとはどういうことか。

「芳賀くんはね、いつも私に理想の彼女を重ねて見てるの。素の私じゃなくて、芳賀くんが思う完璧な彼女のことしか見てない。芳賀くんが私に不満をもっていることなんて、こっちから見ればすぐ分かるの」

「いや、そんなことないよ」

咲樹は大きく息を吸い込んで、一気に話し出した。

「ううん。絶対に不満をもってる。でも芳賀くんは絶対に言わない。それがどれだけ嫌なことか分かる?芳賀くんは、自分の気に食わないところを言うわけでもなく、ただ自然に良くならないかなって待ってるだけ。それじゃ何も変わらないよ。それに、何も言ってくれないっていうことは、それだけ私を信用してないっていうことだよね」

「ちょっと待てよ。そこまで分かってるなら自分から変わればいいじゃないか。俺は咲樹に文句なんて言いたくないから言わなかったんだ。それは分かるだろ?」

咲樹は「分かる、分かるよ」と言ったあと、一呼吸おいた。

「だって、今までの人もそうだったから」

何が悪い?彼女に気を遣うことの、一体何がいけないと言うのだろう。

「私はね、芳賀くん。素のままのお互いを受け入れられるような、そういう恋愛がしたいの。どちらか一方が、どちらかの為に自分を変える。その時点で、愛には格差が生まれているのよ。恋愛は二人でしていくものなのに、なんでそこに格差が生まれなきゃいけないの?私はそれが嫌なの。そうじゃなくても愛し合える人と一緒に居たいの」

「現実的に考えてそれは無理だ。恋愛にはお互い妥協が必要じゃないか?ある時は目をつぶり、ある時は指摘したりして、そうやってバランスを取りつつなんとか上手くやっていく。そういうのが必要なんだ」

「夢をさ」

咲樹の声が震える。それは怒りによるものではないことは、芳賀にも十分に伝わった。

「夢を追いかけたって罰は当たらないよね?私、最初に言ったよね。お互いを素のままで受け入れられたらいいなって。芳賀くんは、素のままの私を見ていない。私の夢だって一緒に見てくれない。そんな夢叶うはずないって、すぐに捨ててるの。そんな人と一緒には居られない。私も、私の夢も愛してくれない人を、どうして私が愛さなくちゃいけないの?」

芳賀はその雰囲気に気圧された。頭の中はぐちゃぐちゃと様々な感情が入り混じり、もう後にも先にもいけない状態だった。

「分かった。もういい。俺は寝る」

芳賀は電話を切ると、そのままの勢いでベッドに飛び込んだ。視界の端には、真っ赤な林檎が転がっている。

目をつぶると、じわじわと睡魔が襲ってきた。両の目を閉じてみて、初めてそこに目があったことを実感する。自分には何も見えていなかったのだろうか。こんな疲れきった目を開いていては、見るべきものが見えずに後悔することになるのだろうか。あぁそういえば、夢は目を閉じなきゃ見えないものだったっけ。というか、まだ課題が終わっていないじゃないか。いや、もう遅い。全てが遅すぎたんだ。何も見えない。もう、何も見えないんだ。

 

午前零時四十八分、芳賀俊介は深い眠りについた。