ことばの海

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AKG20周年記念 『春』

私がその風変わりな少女と初めて出会ったのは、とある病院の中庭だった。

「この花は、何という花ですか。」

それが彼女の発した最初の言葉だった。

私は出版社に勤務している。昔から書き物をすることが好きで、いつかは小説家になりたいと思っていた。いや、今でも思っている。諦めなければ夢は叶う、なんて今ではこれっぽっちも思っていない。だが、諦めたら未来永劫その夢は叶わない。これは動かしがたい真実だ。だから望みのない夢でも縋り付くしかない。それでしか今の私は生きられない。自分よりずっと若い奴らが書いた小説をリライトするたび、何故にこれ程まで人間には才能の格差があるのだろうかと考えてしまう。

アネモネキンポウゲ科、イチリンソウ属の多年草。和名は牡丹一花、花一華、紅花翁草などで・・・」

少女の目が見開かれ、じっと私を見つめる。その表情には、僅かに驚きの色が窺いしれた。

しまった。誰もそこまで聞いてはいないではないか。また自分の悪い癖が出てしまったことに幻滅を覚える。これだから私の小説は面白くないのだ。余計なことを、要らぬ知識を盛り込むから文が濁る。

「双子葉類だ・・・よ。」

反射的に学校で習うことなら共感が得られるだろうと、双子葉類という言葉を加えた。且つ、堅い説明口調は距離を感じさせてしまうと思い、少し語尾を変化させてみた。我ながら最高に滑稽な状態になってしまった。最悪だ。これではただの変なオヤジではないか。少女は少し目を細めて、「詳しいんですね。」と笑った。心なしか嬉しそうに見える。こんな見ず知らずの男に花の名前を聞いて何が嬉しいのだろうか。いや、それとも単に馬鹿にしているだけなのだろうか。

「他に、他にこの花について知っていることはありますか。」

少女が半歩私に近づく。まるで犯人を探している刑事のように、少女の目は私を捉えて離さない。この花についての情報を一滴でも逃すまいと、全身で私が発する言葉に聞き耳を立てているようだ。赤い花が風で少し揺れた。私の言葉で、上手く届けば良いが・・・。

「語源はギリシア語で風を意味するアネモスから、稀にアドニスと呼ばれることがあるが、これはギリシア神話に登場する美少年アドニスが流した血から・・・」

何なのだろう。この少女は。何故か自分が追い詰められているような気がしてならない。この時間が永遠に続くのではないか。そんなぼんやりとした考えが、徐々に頭を支配していく。このまま時間は凄いスピードで流れていって、背中の影が伸びきってそれはやがて夜の向こうに掻き消されていくのだろう。呑まれるな。頭の中の病みきった妄想。それを拒むように私は大きく深呼吸をした。

「そして・・・毒があるんだ。」

私は、この花に関する最後の情報を少女に伝えた。厭になるほど長い時間だったように感じる。

春風に混じって、救急車のサイレンの音が聞こえた。

 

 

 

少女は画家になるのが夢だという。少し離れた、所謂田舎と呼ばれる場所から、ある程度名の通った絵画教室に通っているらしい。

少女は好奇心の塊だった。良い絵をかくためには、被写体についてできるだけ深く知ることが大切なのだと言った。だから、描きたいと思ったモノについては、その全てを知るくらいの興味を掻き立てられるらしい。それは私にとっての小説に似ている。書こうと思ったら、書くモノについてできるだけ深く知ろうと思うものだ。知って書いて、また更に知ろうと思える。何かを書くとはそういう事だと思っていたが、どうやら描くということも本質的には近しいものらしい。

「絵は平面でも、描かれているものには信じられない程の厚みがあるんです。それを描けるか描けないか。私は、私はそれを描きたいんです。」

少女は絵を描くということに対して、気持ち悪くなるほど真っ直ぐだった。少女の心の羅針盤は、寸分も震えることなくキャンバスに向かっているのだろう。私はなぜ少女がそれほどまでに絵を描くということに執着するのか、その訳を知りたくなった。そして知りたくなったから、書きたくなった。書きたくなったから知りたくなった。だからきっと、その風変わりな少女とはまた会うことになるのだろう。

中庭の噴水に留まっている烏が、嗄れた一声をあげると、雲の影が少女だけを覆った。

 

かくして、私はその少女と出会った。アネモネの咲く春に。

 

 

ー続ー