ことばの海

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「目」【参】

生暖かい風が強く吹き付ける。地下鉄のホームは無機質で、それでいていやらしい程に生臭い。人という生き物から滲み出た諸々の滓や芥が、この薄暗い空間に溜まっているのだ。毎日の通学には、この地下鉄と最寄り駅へと繋がる線を使う。大学はわりと都会の方にあるのだが、下宿先は少し離れた都会と田舎の中間のような場所にある。こんなことなら早めのうちに下宿先を決めておけば良かったと何度も思ったが、そもそも進学が決まった時期が遅かったため、大学の近くのいい物件は殆ど埋まっていたのが現状だった。更に言うならば、第一志望の大学に合格すれば早かったのだ。思い出してみるがそれはもう一年前の事で、当時は相当悔しかったはずなのに、今では不思議と諦めに似た感情だけが取り残されている。細長いホームの奥の方では、並んで歩いているカップルに行く手を阻まれているサラリーマンの姿があった。

車両の中は妙に湿っぽくて、窓は薄らと曇っている。仕事帰りと思しきOLがうつらうつらしていると思えば、受験生らしき制服姿の少年が参考書を読み込んでいる。向かいに座っている男は、「よく分かる企業経営」という本を読んでいた。まだ二十代くらいだというのに意識の高いことだな、と思う。ふと彼の履いている革靴の先に、小さな引っかき傷の様なものがあるのが目についた。

人間が最も外部から情報を得ることが出来るのは視覚だと、芳賀は思う。生きている中で、一体どれだけの視覚情報を人間は得ているのだろうか。地下鉄の列車の中。そんな細長い箱の中だけでも、隅々まで見渡せば脳の処理が追いつかない程の情報を得ることが出来る。問題は目から入ってくる情報は、多すぎるが故に情報という扱いを受けないということである。目に映る全てのものに対して、何かを受け取ろうと考えを巡らせば、一日中その場所から動くことは出来ないだろう。人間は視覚情報の大部分を「自分には必要の無いもの」として捨て去ることによって生きている。聴覚情報も同じだろう。味覚や嗅覚は情報として受け取る割合が多いように感じる。自分が無意識のうちに捨て去っていたモノ全て、その全てをしっかりと見ることが出来たら、あるいはこの世界はもっと最高で、もっと最低なものなのかもしれない。

さて、その男の靴の引っかき傷は何故できたものなのだろうか。飼い猫に引っかかれて出来たものなのかもしれない。あるいは何処かで躓いた時に擦ってしまったものなのかもしれない。今自分の目に映っているこの小さな引っかき傷からは、無限の想像が生み出されている。頭の中をありもしない、もしくは存在するかもしれない無数の光景が這い回って消えていった。もしかしたら、想像とは目に映ったものの延長線上にあるものなのかもしれない。ならば色々なものをこの目で見ておく、ということは非常に意味を持つものなのではないだろうか。

 

気がつくと芳賀は最寄り駅のホームに立っていた。生臭さはない。閑散とした場所だからだろうか。少し迷ってから、芳賀は地上へと続く階段を一段飛ばしで駆け上がった。世界はやっぱり白黒で、林檎は相変わらず真っ赤だった。見慣れた街並みに少しずつ着色していく。見える。様々な色が芳賀の脳裏に浮かんだ。でも、その風景の中の林檎は、不貞腐れたようにくすんでいた。風が、コートの裾を弾いた。

取り敢えず今は、家に帰らなければならない。

年末年始奮闘記 2

温泉旅館に来たのなら、まずは温泉に入るべきである。これは殆ど動かすことのできない道理だろう。何故なら、温泉が嫌いなら温泉旅館に来る必要が無いからである。突き詰めるならば、温泉に入りたいからこそ温泉旅館に宿泊するのだ、と言っても過言ではない。かくいう私は、温泉というものが嫌いである。いや、厳密に言うならば温泉旅館の温泉が嫌いだ。それは、自分ではない他人が存在するからに他ならない。何故好き好んで他人の裸体を拝まなければならないのだろうか。いや、真に嫌悪すべきなのはそこではない。見ず知らずの人が、同じ液体の中に一緒に浸かる。このことが私は耐えられなかった。

「じゃ、俺は先に行ってるよ。」

彼は手早く浴衣に着替えると、嬉しそうに部屋を出ていった。彼は温泉が好きなのだ。

独り部屋に取り残されたが、彼は決して私に冷たいわけではないと分かっていたから、寂しくはなかった。こういう時はひとりにした方がいいということを、彼は分かっているのだ。私もそうしてくれてありがたいと思っている。だが、そんな彼も私が温泉旅館が嫌いだということには気づけなかったようである。別に気づかないなら気づかないでいいのだ。

他人と付き合っている以上、どちらかが何かを我慢しなくてはいけない瞬間は必ず訪れる。普段は私のわがままを通してもらっている。これくらい我慢するのが当然なのだ。散々に言ってしまったが、温泉自体は嫌いではない。問題は温泉というものは得てして自分以外の他人が一緒に入浴するものであるという点に尽きる。潔癖という訳ではない。自分ではない誰かの身体など、今まで何に触れてきたか知る由もない。そんな得体の知れないものが、同じ湯に滲み出ているのだ。そんなもの、耐えられるはずがない。これを世間一般には潔癖というのだろうか。潔癖でなくても気になるものではないのだろうか。そんなことを考えながら、それでもせっかく来たのだからと大浴場へ向かい、そして結局後悔した。

 

夕食はありがちなバイキング形式だった。和洋中と様々な種類の料理が並べられ、その前には人々が群がっていた。

「人、多いね・・・」

まぁ旅館の規模からしてしょうがないよね、と彼は苦笑いする。まぁ仕方のないことなのだ。分かってはいるのだが、元来人混みが嫌いな自分にとっては不快感を煽るものに他ならない。コンセプトのバラバラな料理もなんとなく気に食わなかった。そういえば部屋も畳とカーペットの両方が敷いてあったっけ・・・そんなことを考えていると、不満だけが溜まってしまう。そんなのは嫌なのだ。嫌だから、とりあえずまだマシだと思う料理をできるだけ詰め込んだ。彼は「よく食べるね」と笑ってくれる。それがせめてもの救いだろう。

 

夕食後、彼はもう一度あの嫌悪すべき液体に浸かりに行ったようだった。私は特にすることもなく、読みかけの小説を黙々と読んでいた。部屋の中は妙に暑く、堪らず窓際に置かれた椅子に移動した。冬の冷たさが、窓越しに伝わってくるの感じながら、私は時間を忘れて読み耽った。

彼が戻ってくると、いつもの取り留めのない会話が始まった。正直、この時間は楽しい。もちろん不満が消えたわけではなかったが、何も気にすることなくこの時間を楽しめるという空間をもつことができただけでも、来た甲斐があったと思ってしまう。不意に、彼の背後に掛けられている写真に目が止まった。写真は物々しい額縁に入れられていたが、それが僅かに傾いているのが感じ取れた。今まで溜め込んでいた何かが溢れ出して、私は少し笑ってしまった。これか。きっとこういう事なのだ。自分が抱えている不満や不安などは、この僅かに傾いた額縁のように、殆どの人からは気づいてもらうことなどできないのだと。そして私も、誰かの不満や不安を、いくつも見過ごしながら生きているのだと。彼は嬉しそうな顔をして、私を見つめてくる。

「さて・・・」

彼はたっぷりと間をとった。

 

 

気がつくと年は明けていた。部屋の時計の針が、ぴったりと重なって、そして離れ始めていく。彼との話が終わったあとからずっと、私は小説を読み続けていた。相変わらず窓は冷気を放っている。それはカーテンを通り抜けて、直に私を刺してくる。

「次はもっと人がいないところにする・・・」

既に寝たものと思っていた彼が呟く。それが新年初めての彼の言葉だった。返事をしようと首を捻るが、既に彼は深い眠りについたようだった。小説はありきたりなハッピーエンドを迎え、結ばれた二人はこの先の困難も知らず、能天気に笑い合っていた。

ふと、喉の奥に鈍痛を感じた。近いうち、きっと私は病熱にうなされるだろう。

 

 

ー終ー

 

 

本年も宜しくお願い申し上げます。

                                                           漱之介。

年末年始奮闘記 1

山間の道を車で進んでいくと、目的の建物がそびえ立っていた。冬の山々は殺風景で、これで雪でも降っていれば多少絵になるのだろうが、あいにく暖冬のせいなのか今シーズンは一度降ったきりである。遠くを見渡すと、丁度幼稚園児が無造作に作った砂山のように、地味な色をした大きさの不揃いなそれらは枯れたように佇んでいる。

さて、私がなぜそんな場所へ向かったのかというと、ひとえにそこが温泉街であるからにほかならない。他人と付き合うということは、その他人に縛られることに他ならない。私が、いや私たちがこの温泉街来たのも、彼が行きたがったからである。彼はきっとこの年の瀬に、私をどこかへ連れ出すことが良い事だと思っている。そして、私が基本的にアクティブではないことを知っていて、ゆっくりできる温泉旅館へ行くことを決めたのだろう。そのことは素直に嬉しい。私のことを考えて、何かをしてくれる人が近くにいるということは素晴らしいことだ。

目的の建物は、予想していたよりずっと大きかった。大概こういう場所は、どこかのリゾート経営会社がこういった大きくて小綺麗な建物を立てて、大人数が宿泊できる施設を作るものである。彼が予約してくれたのも、もれなくその系統に入るのだろう。十三階建ての本館と、五階建ての別館に分かれているその建物は、きっと多くの人たちを抱え込んで生きているのだろう。本館のエントランス前には、なかなかの大きさの噴水があり、大儀そうに絶えず青白い水を吹き出している。着物を着た従業員に通されてロビーへ入る。彼はチェックインの手続きのためにフロントへと向かった。その間私はこの館内を見渡してみる。床にはカーペットが敷かれており、休憩所のような場所には、派手なのか落ち着いているのかよく分からない色合いのソファーが所狭しと並んでいる。何か違和感を感じる。壁にかけられた油絵と、廊下の隅に置かれた灯篭を交互に見比べる。日本風なのか西洋風なのかよく分からない建物である。まぁ、得てしてこういう系統の建物はそのように装飾されている場合が多いのだが、私はそれに首を寝違えた時のような、解決することのない不満を抱えてしまうのだ。なかなか彼が戻って来ないと思えたことによって、私はここが人で溢れていることに気づく。彼はフロントに出来た列の、前から三人目だった。家族連れやカップル、老夫婦など様々な人間たちがこの温泉旅館に訪れているのだ。本来は人の少ない、山間部に位置したこの街だが、一つの建物にこれほど人が集まっているという事実に触れると、また私は少しだけ不満を溜め込むのだった。

ここには仲居さんの様な人はおらず自分で部屋まで行くのだ、とフロントから戻ってきた彼は言った。どこもかしこも人手不足なのだろうか、これほど人で溢れているのに。あるいは経営的にこれ以上人を雇うのは厳しいのかもしれない。広い廊下には、大きな窓がいくつも付いていて寒空を覗かせていた。なんの用途に使うのか分からないような場所に置かれている椅子が、寒空と相まって何となく冬の感じを醸し出していた。いや、全く冬とは関係ないのだけれども。エレベーター内には、各フロアにどのような施設があるのか書かれた案内板があった。角が剥がれかかったそれには、全くセンスの感じられない施設名がダラダラと漂っていた。一箇所だけ、白いテープが貼られて文字が読めなくなっている施設があった。私は何故か少し腹が立ち、そしてそれを剥がしたいという衝動が生まれた。その時、ガコンというエレベーターの音が生み出された衝動を殺した。どうやら目的の階に着いたらしい。彼はいつも私の隣を歩く時、私のことを考えてくれている。エスコートが上手い、というのが一番しっくりくるのだろうか。子どもっぽい性格をしておきながら、そういう所はしっかりしているのがずるいと思う。彼は私たちが泊まる部屋の番号を呟きながら歩き出す。

「こっちから行ったほうが近いって」

私は弾んだ声で彼に話しかけ、そして彼の左手を掴む。歩きながら、飾ってある写真の額縁が微妙に曲がっているのを見つける。私は、また不満を溜め込んだ。それが澱のように、少しずつ心に堆積されていくのを感じた。

 

 

ー続ー

「目」 【弍】

整然と並んだ林檎を見つめながら、芳賀は思う。林檎に最初に「林檎」という名前を与えた者は誰なのだろうか。考えたからといって、答えが見つかる訳ではない。正直、どうでもいいことである。バイト先でこのような事を考えて居るとは、ほかの誰も思うまい。なんとなくぼうっとしている、芳賀は周りから見ればその程度の男である。いや、自分でもまさにその通りだと思う。自分の属性を決定するのは、遍く他人からの評価が全てであり、いくら自分を自分の中にひた隠しにしたとしてそれが他人の目に映らなければ、隠した自分は最早自分ではないのだ。小説などでは、表面の自分とは別の自分をもっている人間が出てくる。彼らの内面は、読者という他人がいることで成り立っている訳で、やはり自分というものを測ることは、他人にしかできない事なのだろう。

「またボーッとしてる」

気がつくと林さんが近くに立っていた。

「あ、すいません」

林さんは、「ま、いつもの事だからね」と微笑む。目尻の皺が年齢を感じさせる。それでいて、常に活力に満ちている。林さんはそういう人である。最近は子どもが反抗期に差し掛かったらしく、休憩中によくそんな話をするのだが、「ほんと嫌になっちゃうよねー」と言うその時の顔は、どこか嬉しそうに映る。自分がこのスーパーで働き始めたときから、林さんにはお世話になっている。まぁどちらにしろ仕事なのだから、新人の教育は大事なことなのだが、丁寧に仕事を教えてくれる先輩というものは概ね後輩から好かれるものである。林さんの目はいつも優しい。そう見えるだけなのかもしれないが、喩えるならそれは母親の眼差しといったところだろう。ということは、林さんには自分がまだまだ子供に見えているということではないか、と自分で自分に突っ込む。いや、むしろ自分の半分の時間しかこの世に存在していない人間など、まだまだ子供のようなものなのかもしれない。ということは、少なくともこの日本では、人口の半分以上の人たちが自分たちの世代を子供だと思っているということになる。子供だと思われているうちは、大人と対等に関わることは出来ない。対等に関わることが出来ないというのに、どうしたら若者達が日本を変えていけるというのだろうか。人工的な冷たい空気が、首筋を撫でる。十二月の自分には、青果売場は少し寒すぎるようだ。

バイト終わりは林さんと同じ時間だった。これから家に帰って夕飯を作るのだろうかと思っていたら、今日は旦那さんが用意して待っていてくれるのだそうだ。

「なんか張り切っちゃってね。それでいて洗い物するのは私なのにね。」

やはり林さんはどことなく嬉しそうに見える。それほどまで自分は今、幸せではないのだろうか。考えたこともなかった。考えたところで、幸せなのか不幸なのか分かるわけもなかった。芳賀はただ、ただ日々を生きているだけだ。何となく会話が続かなくて、林さんに試験のことを話してみた。私じゃ何もアドバイス出来ないなーと言った後、少し考える素振りを見せた。

「うーん、でも自分で選んだ道だからね、頑張るしかないよ。」

また、あの目だ。その目が、その目が気に食わない。

帰りがけに林檎をひとつ買って、店を出る。夜の静けさと肌を刺すような冬の吐息が、店のすぐ手前まで迫っていた。道に出ると、風は更に強くなり、そこらじゅうの建物と擦り合って音をかなでている。帰り道にある公園には恐竜の形をした遊具が置かれていた。前足の端を街頭に照らされ、つまらなそうに佇んでいる。白黒の世界で、ビニール袋から取り出した林檎だけが赤かった。恐竜は、林檎を見つけると、ひと声だけ、物悲しげに鳴いた。

穴が、穴が怖いのです。

ええ、そうなんです。いつの頃からなのかは、すっかり忘れてしまったのですけど。

なぜ怖いのか・・・・・・そうですね。

例えば、世界の裏側で誰かが泣いていたとしても、私たちはそれを知る術はありませんよね。

一人でいるとき、もし自分の真後ろの空間から、世界が少しずつ滅びていったとしても、それを知る術はありませんよね。

見えていないところって、結局、自分の目で見えていない部分って、この世界に存在していないことと同じことのように思えるんです。

でも、全く見えていないのですから、気にする必要もまたありません。絶対に知ることが出来ないのですから、心配していても仕方がないのです。

え?それが穴とどう関係があるのか、ですか?

そう焦らないでください。

底の見えない穴を覗き込んでいる自分を想像してください。底が見えないということは、その部分は世界に存在していないことと同じ事なのです。底の見えない穴を覗き込むということは、世界に存在していない部分を見ようとしているのと同じことだと思いませんか。

見えないから気にすることは無い。でも、穴を、穴を覗いてしまったら、見えないはずの部分を見つめていることになると思うんです。

いつか排水口の奥から人の腕が出てくるかもしれない、壁に空いた穴から蛇が出てくるかもしれない、底の見えないほどゴミの溜まったゴミ箱から得体の知れない物音が聞こえるような気がする。

そう思うとね、夜も眠れないんですよ。

でもね、穴って覗きたくなるものなんですよね。もしかしたらね、覗き込んでいる方には何も見えなくても、覗かれている方には見えているかも知れませんよね。そうでしょう。だって、底の見えない穴の向こうを知る術はないのですから、何が起こっていても不思議はありませんよ。

ほら、ちょうどそこの障子に穴が空いていますね。だれか覗いているのかも知れませんよ。とは言っても、私たちにそれを知る術はないのですけれど。あなたも、常に誰かに覗かれているのかも知れませんよ。

 

そう言って彼女は、少し笑った。

続・嫉妬しますよ、その文才。

優れた文章とは、私にとって絶望である。

 

最近の若者は読書をしないという。確かに、様々な娯楽が手軽に楽しめるようになった世の中、わざわざ何時間もかけて紙の束を一枚一枚丁寧に剥がし、そこに書かれた文字の羅列を延々と読んでいくという作業に、万人が熱中する筈もない。

本とは、頁岩のようだと思う。薄い頁岩を剥がすと、そこに太古の生物たちの息吹が感じられる。それと同じように、本の頁には何者かの生命力が宿っている。だからこそ、作者が既に死んでいたとしても、現代の人々に影響を与え続けるのだろう。差し詰め、熱心な読書家とは考古学者のようなものだろう。剥がした頁岩のどんな生物に注目し、そして何を感じ取るか、それは読み手に委ねられる。だから、様々な考察や持論が出てくるのだ。

 

実に愉快ではないか。

 

最近の若者は読書をしないという。

しかし、現代日本にも、太古の生物たちに取り憑かれた大馬鹿者達が、少なからず生きている。彼らは、傍目から見れば生きながら死んでいるようなものである。何が楽しくて人生を送っているのか、何を目標にして生きているのか甚だ疑問である。それもそのはずである。彼らは何もない頁岩に生命力を吹き込もうとしているのだ。自らの生命力を、余すところなく注ぎ込んでいるのだ。

彼らは決して生き生きとはしていない。その分、彼らの文章には生命力がある。見るものに衝撃を与えるような、とんでもない生命力である。果たしてこれが同世代だろうか。私は常々思う。彼らは何も語らず、ほとんど動きもしない。しかし、文章が私を押し潰す。何が優れた文章であるか、そんなことは私にはよく分かっていないのかもしれない。一つ言えることは、この瞬間において、私は彼らの文章の生命力に押し潰され、更には私の命さえ否定されている。それも同世代に、あまつさえ歳下にである。私だけが見ている悪い夢だろうか。

恐らくは、そうなのだろう。私も、大馬鹿者の一人ということだろう。いや、悪いことに大馬鹿者になりきれない、中途半端な人間だ。そんな者が見る夢など、大した夢ではない。

 

優れた文章とは、私にとって絶望である。