ことばの海

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冬と病熱

先日、私は喉を患いました。毎年のことなのですが、昼夜の寒暖差が激しくなるこの頃、喉を痛めては発熱するというお決まりのパターンがやってくるのです。

日曜日だというのに外に出かけもせず、日がな一日布団の中と自分の部屋の中だけで生活をしていました。「せきをしてもひとり」とはこのことだなぁと思いつつ、寒い部屋の中で毛布にくるまっておりました。

夜中になりまして、さぁ寝ようかと思いましたが、昼間たっぷりと睡眠をとってしまったせいか、全く眠くないのです。熱のある頭で狭い部屋にぽつんと座っていますと、ぼうっとしてきまして、ふわふわとした感覚になってまいります。自分がここに存在しているのか、それとも魂だけが漂っているのか判然としないような、どこかもどかしい気分になったのであります。外は恐らく冷たい風が吹いているでありましょうが、寝付けませんし、丸一日外に出ないというのも如何なものかと思いまして、簡単に防寒対策をして、耳にイヤホンを突っ込んで私は夜の街へ繰り出したのであります。

別段これといって目的は御座いませんから、普段ランニングをしているコースを逆からゆっくりと歩いておりました。平日の深夜、車の通りも少なく、そもそもあまり人通りのないコースを選んでおりますから、とても静かなものです。耳に入ってくるのは音楽だけ。夜を体現しているかのような、低いベースの音色が耳に残ります。

私は火照った頬に冷たい風が当たるのを感じるのです。そして、自分の内側と、外側の世界がしっかりと分かれ、おのおの存在しているという事実を認識するのです。或いは、吸い込んだ冷たい空気が、痛んだ喉や肺に入り込んでいって、なんとも言えない痛みを生み出す。それを体に感じることによって、私は生きているということを改めて実感するのであります。

冬という季節は、私の体の内にある熱と反発しあうことで、私は生というものを今一度確認しているのです。

 

「目」【壱】

芳賀俊介は憂鬱だった。明日が試験の日だったからだ。試験と名の付くものたちとは、高校でお別れするものとばかり思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしく、大学でも定期的に奴らの恐怖に晒されている。

芳賀は悩んでいた。なぜ悩むのかというと、それは今回の試験が単に学力を問うタイプの試験ではなく、創作の試験だからである。文学部不要論が吹き荒れる昨今、それでも文学部に縋りついて来る者は多く、明確な意思のある輩からただ何となく入学して来る輩まで多種多様な人物が芳賀の大学にも在籍している。そして、創作することを目的にしていない、楽に単位を取ろうとしているぬるい奴らの前に立ちはだかるのが、この創作の試験なのだ、と芳賀は思う。

「目」というお題に沿って自由創作する。これが今回の試験の内容だった。芳賀は生まれてこのかた文学的な何かを創作したことは一度たりとも無かった。文学部で創作の講義を取っているのだから、何かを創作するということは逃れることのできない宿命である。とはいうものの、技術も経験も、あまつさえ創作意欲もない芳賀にはそんな宿命を呪うことが精一杯で、級友たちが次々とアイディアを考えついているのをただ恨めしげに見ているのが現状である。何しろ惰性で文学部に入った男なのである。この講義を取ったのも、仲の良い友人が同じ講義を取ったことと、先輩から楽に単位を取れることを伝えられていたからだった。しかしながらこの芳賀、変なところで真面目な人物なのだ。せっかく創作をするのなら自分も文学部の端くれ、才能を感じさせる創作物を生み出し、いつも後ろの方の席で寝てばかりいる男の存在感を見せてやる、と決心した革命の時を芳賀は試験2日前の午後1時18分、学生食堂で迎えたのである。

しかし、アイディアなど浮かぶわけがない。何しろ時間が無さすぎる。いや、時間がないのは自分自身が前々から構成を練っていなかったことが悪いのだが、今となっては後の祭り、時間がないと嘆く他ない。そもそも「目」とは何なのだろうか。教授は目という漢字さえ使えば、それが網目の目であろうとも、碁盤の目であろうとも目次の目であろうとも良いと言っていた。芳賀にとっては「目」はそのままの目であり、ただ単に視覚を司る器官でしかない。目、目、目。目といえば金目鯛の煮付けは美味しいよなぁと、ふと思った。基本的に魚は好きだが、中でも金目鯛の煮付けは絶品だな、と芳賀は思う。金目鯛は目が金色なのだろうか、煮付けにされている彼しか見たことがないから分からない。煮付けにされた彼の目は白だ。というか魚の眼は何故白になるのだろうか。死ぬからだろうか。いや、それなら鮮魚コーナーのサンマやらアジやらの目も白目でしかるべきだ。熱を加えるとそうなるのだろうか。不思議だ。それにしても金目鯛の煮付けは何故あんなに美味しいのだろうか…

「おい、どうした。死んだ魚のような目をして」

突然、天から聞き覚えのある声が降り注いだ。死んだ魚?えっと、それってつまり…

「に、煮付けですか?」

「はぁ?」

声の主は同じサッカーのサークルに所属している先輩、塚原だった。そうだ、違う違う。魚のことを聞きたいんじゃない、自分のことだ。

「俺、白目剥いてました?」

「…芳賀、お前大丈夫か?」

そうだ。死んだ魚のような目とは、覇気がなく、生気を感じられない目のことを表す語句であって、何も焼き魚や煮魚のような白目を指すものではない。

「あ、いや、すいません。考え事してて。」

「なんか思い詰めてたぞ。恋の悩みか?好きなコできたのか?」

塚原はテーブルの向かいの席に座り、身を乗り出して聞いてきた。どうして恋の話になると人は嬉々として話に入ってくるのだろう。一種の娯楽なのだろうか。それでいて恋が成就した暁にはリア充爆発しろ、と言われるのだから想い人などいない方が良いのではないかと思ってしまう。ましてやこの先輩は所謂スピーカーだ。この人に恋の悩みなど相談したら、次の日には大学の全員がそのことを知られ、ネット上にはまとめサイトが作られ、次の試験には芳賀の好きな人は誰でしょう、という設問が加えられると言っても過言ではない…さすがに過言だ。まぁ、今の悩みは恋の悩みなどではないのだから、恐れることは何もない。

「いや、今度創作の試験があって。アイディアが思いつかないんですよね。」

「そうか。何かお題とか形式とかないのか?」

「目っていう漢字に沿って書くという条件の他は、全部自由ですね。」

 塚原の顔から興味の色が失われていくのがありありと見えた。興味がないなら話題に乗ってこなければ良いのに。「俺には分からねぇわ」とひとこと言ってくれればそれで良いのに。何故話に乗ってくるのか。先輩とは後輩の相談に乗るものだ、とでも思っているのかもしれない。そうに違いない。塚原は良くも悪くも後輩の面倒をよく見る先輩だ。悪くいえば後輩への絡みがしつこい。そういうのが好きな後輩もいるが、嫌いな後輩だっているのだ。芳賀は、嫌いな後輩だった。先輩は先輩で、しっかり後輩の面倒は見るべきだとは思うが、それはサークル内でのことであって、プライベートにまで口出しされては堪らない。サークル内だけに友達がいるわけではないし、先輩とだけつるんでいたいわけでもないのだから、後輩をやたらと飲みに誘うのはやめてほしい。まぁ、奢ってもらえるからその点は嬉しいが。とは言ったものの、芳賀は純粋にサッカーをしたいだけで、活動後の飲み会であったり、わちゃわちゃ集うだけの合宿であったり、ましてやプライベートでサークルのメンバーで遊びに行くなどということは求めていないのだ。求めていない者に無理やり押し付けるのは押し売りではないか。消費者庁に訴えねばなるまい。

「俺には創作はよくわかんねぇけどさ…」

出ました。「よくわかんねぇけどさ」よく分からないのなら分からないと言って欲しい。分からないなら分からないで別の、実りのある話題に切り替えればいい話なのだから。

「ほら、俺は経済学部だけどな。普段は見えない数字っていうのが目に見えると、意外と社会って面白いってわかるんだぜ。」

自分の専門分野に持っていこうというのか。創作には活かせそうもない話だが、興味はある。創作には活かせそうもない話だが。

「へぇ〜。もっと詳しく話してくださいよ!」

「なんつって、俺も専門家じゃねぇからな。目に見えないものが見えるようになったら、世界って面白くなるんじゃないかって思ってな。」

なるほど。それは一理あるかもしれない。目は見えるものしか見えないが、見えないものが目に見えるようになったら面白いはずだ。間違いなく、面白い。

「そういや芳賀、こんどのサークルの後に飲み会あるんだけど行くか?」

始まった。理想の先輩のポーズだ。塚原は「理想」が誰にとっての理想なのかもう一度考え直すべきだ。

「いや、試験も近いですし、遠慮しておきます。」

「そっかぁ、残念だなぁ。じゃあさ…」

まずい。全てを断り切るのは無理がある。ここは引き時だ。

「すいません先輩。バイトに遅れてしまうので失礼します。」

「ん、あぁ。頑張れよ」

苦手な先輩ではあるが、塚原は先輩だ。一応しっかりと、丁寧に挨拶しておく必要があるだろう。苦手な人物だからといって、邪険に扱ってはいけない。今よりもっと面倒臭い事になったら、それはそれで困る。ここは、丁寧に。思いっきり建前でいいのだ。これは本心ではない、建前だ。

「すいません。いつも相談に乗ってもらっちゃって。また何かあったら頼らせて頂くかもしれないです。じゃ、またサークルで。」

 

 

 

 

ー続ー

 

百鬼夜行#3 〜寿司になった妖怪〜

皆さんお寿司は好きですか?

今の時代、ありとあらゆるところに回転寿司屋があり、リーズナブルな値段で寿司を楽しむことができます。しかも最近の回転寿司屋も様々な工夫を凝らし、鮮度などの品質も向上していて、中々おいしいなぁと思う私であります。

寿司と言えば、握り、軍艦、巻物が主ですよね。そんな寿司に妖怪の名前を冠しているものがありますよね!誰しも一度は見たことがあるであろう……そう、河童巻です。

 

河童ってどんな妖怪?

 

と、思った方々は日本に来て日が浅いか、まだ年齢的に幼い人たちくらいでしょう。「河童」という単語から、なんとなくその姿形や性質などを、恐らく殆どの日本人が思い浮かべることができるでしょう。それほど河童という存在は、日本人の文化に深く根付いている妖怪だと言えます。寿司の名前になるくらいですからね。

緑色で、頭には皿が載っていて、水かきを持ち、嘴が付いている…これが最もポピュラーな河童のイメージではないでしょうか。しかしながら、河童には一般に知れ渡っている姿形とは、異なる形をしているものや、性質が異なるものも存在します。じゃなんで河童がそんなにバリエーション豊かなんじゃろなと、そういう訳です。

 

文明は川の近くで生まれる。と学校で習います。川があるということは、そこに水があり、その水は人間が生活していく上で非常に重要な役割を果たすからです。つまり、川の周りには自然と人々の生活拠点ができるということなのです。そして、河童は川に出現するものと相場が決まっています。故に、河童は全国に出現する事が可能なのです。これが山奥だと、山に分け入ることが習慣となっている人にしか伝わりませんし、海坊主などの海の妖怪だと、内陸部の地域で語り継がれることはありません。河童は妖怪の中でも、出現できる条件が限りなく緩い存在だったのです。

【序】でもありましたように、川にはたくさんの生物が生活しています。しかしながら、川岸には葦などの背の高い植物が群生しているため、何かの生き物がいる音がしてもその姿は見えないことが多い、つまり「それは河童じゃな」といえばそこに河童が生まれる可能性が高いのです。こうして河童は全国に広まり、独自に話が盛られてさながらご当地くまモンのように固有の形態が確立されていったのです。

こうして、河童は国民的な妖怪となったのです。妖怪にも汎用性や拡張性があることがお分かり頂けたでしょうか。

 

それでは、よろしければ、また次回。

 

ナンバーワンを目指さなくてもオンリーワンになれるのか?

先日、SMAPの解散が発表されました。国民的人気グループであり、その歌やメンバーの言葉に救われた方や勇気を貰った方はさぞ多いことでしょう。

さて、彼らの有名な曲に「世界に一つだけの花」というものがあります。日本人なら一度は聴いたことがあるであろうこの曲。「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン」という歌詞は「1番になろうとして争う必要はない、自分自身の独自性があるからいいじゃないか」という意味が込められています。(あくまで個人の見解です)とても素晴らしい歌詞だと思うのですが、ここでひとつ素朴な疑問が生じます。それがタイトルの「ナンバーワンにならなくてもオンリーワンになれるのか」ということです。

一見するとナンバーワンとオンリーワンは異なるもののように思えます。ナンバーワンというと、誰か他の対象と争って、勝ち取ったものだというイメージがあり、オンリーワンというと、自分の個性を伸ばして、争うことなく得られるものというイメージがあるからです。勿論SMAPさんの歌詞は、それを念頭に置いて組み上げられたものだと思うので、それはそれでいいとは思うのですが、現実の世界ではそう簡単に行くのだろうか…という事なのです。

「ナンバーワン」と「オンリーワン」にはある共通点が存在します。それは、両方とも

他人から自分が認められる事によって成立する

という事です。ナンバーワンについてはイメージしやすいかと思います。オリンピックなどで金メダルを獲る、つまりナンバーワンの選手は審判や観客、あるいは他の出場選手達から認められることで初めて、ナンバーワンの地位を不動のものとします。オンリーワンについても同じ事が言えます。いくら自分で自分の事を、独自性があって他の人とは違うと思っていても、自分に関わる全ての人が、何処にでもいる替えがきく凡庸な人間だと評していたとしたら、それはオンリーワンの人間ではなく、オンリーワンだと錯覚している勘違い野郎に成り下がります。SMAPの曲においても、メンバーが聴く人に向けて「君たちはオンリーワンなんだよ」と認める事によって、このオンリーワンが成り立っていることが分かります。この事からどちらも、他者から認められることで成立するということが理解して頂けたかと思います。

では、ナンバーワンとオンリーワン、このふたつの決定的な違いは何でしょうか。私は「規模の差」がこの重大な役割を担っていると考えます。他人から認められる。このことは簡単であり、また難しくもあることです。この世の中には様々なタイプの人がいて、その数だけ他人に求める要素や、尊敬、感動するポイントが存在します。その中から比較的大部分の人が持つ価値観に当てはまった者が「ナンバーワン」。ごく少数でありながら、極端に言えば一人でもその価値観に認められれば「オンリーワン」となるのです。例えば

「俺が思うに、あいつの技術はナンバーワンだよ」

と、誰か一人が他人を認めたとします。

字面だけではその認められた人はナンバーワンですが、さて、冷静に考えてみるとナンバーワンではありません。これは誰かが自分の中で、他人をかけがえのない存在、あるいは最も素晴らしいという存在として認めたというだけで、これはオンリーワンに属されるのです。

と、ここまででナンバーワンとオンリーワンは紙一重ということが分かりました。ということで、漸く本題についてです。まずは、もう一度オンリーワンについて考えてみる必要があります。オンリーワンとは、自分の独自性、個性が他人に認められて成立します。すなわち、自分以外の誰かに自分の長所を認めてもらわなけれならない、あるいは短所を持っていてもそれを許せるほど他の要素を磨くという必要があります。自分の中の何かの要素を伸ばす。そしてそれも他の人と差異をつけていかなければなりません。つまり、ナンバーワンを目指さなくてはならないのです。ナンバーワンはオンリーワンの延長線上に存在するのです。必然的に、そこには他人との衝突や軋轢、妬みや挫折がついて回ります。自分はオンリーワンですらないのではないか…そんなことが何度も頭をよぎります。

しかしながら、あなたの周りには、あなたをかけがえのないオンリーワンだと思っていてくれる人が居るはずです。それが救いの光です。その人こそが、自分自身のオンリーワンを証明してくれるのです。そしてその人は、逆に言えば自分にとってのオンリーワンになっていることでしょう。

 

 

と、何となく綺麗事で纏めてしまいました。自分のために他人を大切にする。そういう関係があったって良いと思うのです。

 

 

読んでくださいましてありがとうございます。

次回も、よろしければ、是非。

 

 

 

百鬼夜行#3【序】

「匂い?」

村山は頬張ろうとした焼き鳥の串の動きを止めた。村山は会社の先輩にあたる。アルコールには強くないくせに、上司に小言を言われた日は決まって呑みに誘ってくる。彼が小言を言われない日はまずないから、断りでもしない限り僕に休肝日は訪れない。

「ほら、川って特有の匂いがするじゃないすか。」

どうやら今日は、担当している記事に文句をつけられたようだ。村山は確かにセンスがない。明確な改善点を示さず「なんとかならないのかね」とばかり言い続けている編集長もそれはそれで芸がないというか、部下を育てるのが下手という気がするが、村山に至っては本人が悪いというのが僕を含む同僚たちの見解だ。なんとかならないものか…って、どうにもならないだろうに。センスがないのだから。

「ドブ川みたいな嫌な感じの匂いか?」

「そうじゃなくて、僕の地元とかのまぁまぁ綺麗な川だってするんですよねぇ。わかんないっすかねぇ。」

ジョッキからビールを飲み干した村山は、どうやらピンときていないようだ。一応先輩にあたるのだから、村山さんとか村山先輩とか呼ぶのが当たり前なのだ。無論会話の中ではそうしているのだが、それにしても村山はいつまでたっても村山のままだ。

一昨日、関東地方は猛烈な豪雨に襲われた。各地で川が氾濫し、その光景はテレビで何度も映された。だからその話題についてあれこれ言っていた筈なのだが、一杯目のビールが運ばれてくる頃から既に話は脱線気味だ。まぁ、呑みの席の雑談なんてそんなものなのだろうと思う。

「わからんなぁ。そんな綺麗な川は匂いなんてしないだろ。川って言ったって、要は水だろ。水。俺の実家は割と田舎の方にあるんだけどな、そこの川は澄んでいて、匂いなんてしないぞ。」

恐らくあれは生活臭なのだ、と栗田鉄平は思う。空気中にだって微生物は居る。だったら、命の源と言われている水の、ましてや有機物やらなにやらをたっぷり含んだ川の水には、途方もないほどの生き物が生活しているに違いない。というか、実際に居る。生きているのだから、呼吸するし、物も食う。呼吸すれば穢れた空気を吐き出すし、物を食えば排泄もする。それらが混じり合って、川は形成されているのだ。匂って当然だ、と栗田は思っている。別に嫌いな匂いではない、言うまでもなく好きな匂いではないが。何というか、不快というか、不安を煽るというか、それでいて得体の知れない温かみのある匂いだ。逆に言えば、その匂いがするほど無数の命が川の中に蔓延っているということでもある。

「村山さん、それは都会の川に慣れちゃってるからっすね。都会の川の匂いがあまりにきついから、匂わないように感じてるだけっすよ。染まっちゃいましたねぇ、都会に。」

何だよそれ、地元に住んでる友達みてぇなこと言いやがって…と村山は枝豆を噛み潰しながら呟いている。

都会の川の匂いは、生活臭ではない。あれは余分なものが多すぎる、と栗田は思う。命ではない何か。それが含まれすぎているのだ。より命の匂いを感じ取ることができるのは、やはり田舎の川なのだ。あの川の中に足を入れる時、流れに沿って無数の命が肌の表面を駆け巡っているのだ。もしかしたら、毛穴から身体の内側まで侵食されているかも知れない。自分ではない他の命に自分を侵食される。これほど気持ちの悪い事はない。自分の中に入って来た命は一体何をしているのだろう、と彼は考えた。別段明確に目的など無いのだろう。それでも、他人を侵食するのが愉しいかのように、無数の命たちはやって来る。本当に侵食されているかどうかは判然としていないが。これは何も川だけに起こる事ではない。人間社会だってそういうものなのだ。ほとんど関係のない、名もない命が、常に誰かを侵食しようと狙っている。それが行き過ぎれば、削られ、削ぎ落とされ、そして死が訪れる。無数の命の中で、ひとつひとつ命が消えていくのは、川も人間社会も同じようなものだ。まぁ、だからなんだという話なのだが。

あぁ…

不意に村山が声をあげた。

「実家の近くの川にはな、河童が出るって噂があったんだ。どうだ、すげぇだろう。」

「河童…ですか?」

河童というとあの、胡瓜を食ったり相撲をとったりするあの河童だろうか。

「胡瓜食ったり相撲とったりする河童とは違うぜ。俺のところの河童はな、川に入った奴の脚を引っ張ってな、溺れさせちまうのさ。」

村山は酔いが回ってきた、と栗田は推理した。いつものことなので、凡そこの推理は当たるだろう。某少年探偵のようなセリフを使えば、真実はいつも一つ、それは村山が酔っている、という事だ。奴が家路につけなくなる前に、早いとこお開きにしておこう。

 

久しぶりの帰省である。栗田は今、橋の上から川の流れを見つめていた。環境が変わったからか寝付けずに、ふらふらと散歩をしていた。午前二時。川は墨汁を流したかのような真っ黒い色をしていて、心細い街灯に照らされてぬらぬらと不気味に光っている。見えないが、居る。そこには無数の命が流れている。

不意にガサッと音がした。

ー河童か…

村山の言葉に影響されるとは予想外だったが、川沿いの草叢から音がした時、反射的にそう思ってしまったのだから仕方がない。

俺を…引き摺り込もうとしているのだろうか…

引き摺り込まれたらどうなるのだろうか。まぁまず間違いなく死ぬだろう。川の水に溺れながら…無数の命が、身体中の毛穴という毛穴から侵食し、肉を貪り、血を啜る。口からだって、目からだって入ってくるだろう。そんな事を想像するのは、少し気持ち悪い。或いは、人は河童のような存在に出会う事によって、死んでいくのかも知れない。河童に出会う事で、否が応でも命たちの中に引き摺り込まれる。後は、その命たちが、自分の身体を侵食していくのをじっと、ただじっと、ひたすら待ち続けるだけの日々が訪れる。そしてその時は人生の中で、意外と早く訪れる。河童に出会うのは、子供の頃と相場が決まっているのだ。

でももし、本当にそうだったとしたら。そんな風に死んでいくのだとしたら。それは…

 

厭だな…

 

と栗田鉄平は思った。

 

 

 

ー河童ー