百鬼夜行#3 〜寿司になった妖怪〜
皆さんお寿司は好きですか?
今の時代、ありとあらゆるところに回転寿司屋があり、リーズナブルな値段で寿司を楽しむことができます。しかも最近の回転寿司屋も様々な工夫を凝らし、鮮度などの品質も向上していて、中々おいしいなぁと思う私であります。
寿司と言えば、握り、軍艦、巻物が主ですよね。そんな寿司に妖怪の名前を冠しているものがありますよね!誰しも一度は見たことがあるであろう……そう、河童巻です。
河童ってどんな妖怪?
と、思った方々は日本に来て日が浅いか、まだ年齢的に幼い人たちくらいでしょう。「河童」という単語から、なんとなくその姿形や性質などを、恐らく殆どの日本人が思い浮かべることができるでしょう。それほど河童という存在は、日本人の文化に深く根付いている妖怪だと言えます。寿司の名前になるくらいですからね。
緑色で、頭には皿が載っていて、水かきを持ち、嘴が付いている…これが最もポピュラーな河童のイメージではないでしょうか。しかしながら、河童には一般に知れ渡っている姿形とは、異なる形をしているものや、性質が異なるものも存在します。じゃなんで河童がそんなにバリエーション豊かなんじゃろなと、そういう訳です。
文明は川の近くで生まれる。と学校で習います。川があるということは、そこに水があり、その水は人間が生活していく上で非常に重要な役割を果たすからです。つまり、川の周りには自然と人々の生活拠点ができるということなのです。そして、河童は川に出現するものと相場が決まっています。故に、河童は全国に出現する事が可能なのです。これが山奥だと、山に分け入ることが習慣となっている人にしか伝わりませんし、海坊主などの海の妖怪だと、内陸部の地域で語り継がれることはありません。河童は妖怪の中でも、出現できる条件が限りなく緩い存在だったのです。
【序】でもありましたように、川にはたくさんの生物が生活しています。しかしながら、川岸には葦などの背の高い植物が群生しているため、何かの生き物がいる音がしてもその姿は見えないことが多い、つまり「それは河童じゃな」といえばそこに河童が生まれる可能性が高いのです。こうして河童は全国に広まり、独自に話が盛られてさながらご当地くまモンのように固有の形態が確立されていったのです。
こうして、河童は国民的な妖怪となったのです。妖怪にも汎用性や拡張性があることがお分かり頂けたでしょうか。
それでは、よろしければ、また次回。
ナンバーワンを目指さなくてもオンリーワンになれるのか?
先日、SMAPの解散が発表されました。国民的人気グループであり、その歌やメンバーの言葉に救われた方や勇気を貰った方はさぞ多いことでしょう。
さて、彼らの有名な曲に「世界に一つだけの花」というものがあります。日本人なら一度は聴いたことがあるであろうこの曲。「ナンバーワンにならなくてもいい、元々特別なオンリーワン」という歌詞は「1番になろうとして争う必要はない、自分自身の独自性があるからいいじゃないか」という意味が込められています。(あくまで個人の見解です)とても素晴らしい歌詞だと思うのですが、ここでひとつ素朴な疑問が生じます。それがタイトルの「ナンバーワンにならなくてもオンリーワンになれるのか」ということです。
一見するとナンバーワンとオンリーワンは異なるもののように思えます。ナンバーワンというと、誰か他の対象と争って、勝ち取ったものだというイメージがあり、オンリーワンというと、自分の個性を伸ばして、争うことなく得られるものというイメージがあるからです。勿論SMAPさんの歌詞は、それを念頭に置いて組み上げられたものだと思うので、それはそれでいいとは思うのですが、現実の世界ではそう簡単に行くのだろうか…という事なのです。
「ナンバーワン」と「オンリーワン」にはある共通点が存在します。それは、両方とも
他人から自分が認められる事によって成立する
という事です。ナンバーワンについてはイメージしやすいかと思います。オリンピックなどで金メダルを獲る、つまりナンバーワンの選手は審判や観客、あるいは他の出場選手達から認められることで初めて、ナンバーワンの地位を不動のものとします。オンリーワンについても同じ事が言えます。いくら自分で自分の事を、独自性があって他の人とは違うと思っていても、自分に関わる全ての人が、何処にでもいる替えがきく凡庸な人間だと評していたとしたら、それはオンリーワンの人間ではなく、オンリーワンだと錯覚している勘違い野郎に成り下がります。SMAPの曲においても、メンバーが聴く人に向けて「君たちはオンリーワンなんだよ」と認める事によって、このオンリーワンが成り立っていることが分かります。この事からどちらも、他者から認められることで成立するということが理解して頂けたかと思います。
では、ナンバーワンとオンリーワン、このふたつの決定的な違いは何でしょうか。私は「規模の差」がこの重大な役割を担っていると考えます。他人から認められる。このことは簡単であり、また難しくもあることです。この世の中には様々なタイプの人がいて、その数だけ他人に求める要素や、尊敬、感動するポイントが存在します。その中から比較的大部分の人が持つ価値観に当てはまった者が「ナンバーワン」。ごく少数でありながら、極端に言えば一人でもその価値観に認められれば「オンリーワン」となるのです。例えば
「俺が思うに、あいつの技術はナンバーワンだよ」
と、誰か一人が他人を認めたとします。
字面だけではその認められた人はナンバーワンですが、さて、冷静に考えてみるとナンバーワンではありません。これは誰かが自分の中で、他人をかけがえのない存在、あるいは最も素晴らしいという存在として認めたというだけで、これはオンリーワンに属されるのです。
と、ここまででナンバーワンとオンリーワンは紙一重ということが分かりました。ということで、漸く本題についてです。まずは、もう一度オンリーワンについて考えてみる必要があります。オンリーワンとは、自分の独自性、個性が他人に認められて成立します。すなわち、自分以外の誰かに自分の長所を認めてもらわなけれならない、あるいは短所を持っていてもそれを許せるほど他の要素を磨くという必要があります。自分の中の何かの要素を伸ばす。そしてそれも他の人と差異をつけていかなければなりません。つまり、ナンバーワンを目指さなくてはならないのです。ナンバーワンはオンリーワンの延長線上に存在するのです。必然的に、そこには他人との衝突や軋轢、妬みや挫折がついて回ります。自分はオンリーワンですらないのではないか…そんなことが何度も頭をよぎります。
しかしながら、あなたの周りには、あなたをかけがえのないオンリーワンだと思っていてくれる人が居るはずです。それが救いの光です。その人こそが、自分自身のオンリーワンを証明してくれるのです。そしてその人は、逆に言えば自分にとってのオンリーワンになっていることでしょう。
と、何となく綺麗事で纏めてしまいました。自分のために他人を大切にする。そういう関係があったって良いと思うのです。
読んでくださいましてありがとうございます。
次回も、よろしければ、是非。
無題
誰かが自分に向かって、他の誰かの悪口を吐いていると、自分はまだ大丈夫なんだな、と思ってしまう。
無題
幸せは
続かないから幸せなのだ
続けばそれは平凡となり
日々の中に埋没するばかり
百鬼夜行#3【序】
「匂い?」
村山は頬張ろうとした焼き鳥の串の動きを止めた。村山は会社の先輩にあたる。アルコールには強くないくせに、上司に小言を言われた日は決まって呑みに誘ってくる。彼が小言を言われない日はまずないから、断りでもしない限り僕に休肝日は訪れない。
「ほら、川って特有の匂いがするじゃないすか。」
どうやら今日は、担当している記事に文句をつけられたようだ。村山は確かにセンスがない。明確な改善点を示さず「なんとかならないのかね」とばかり言い続けている編集長もそれはそれで芸がないというか、部下を育てるのが下手という気がするが、村山に至っては本人が悪いというのが僕を含む同僚たちの見解だ。なんとかならないものか…って、どうにもならないだろうに。センスがないのだから。
「ドブ川みたいな嫌な感じの匂いか?」
「そうじゃなくて、僕の地元とかのまぁまぁ綺麗な川だってするんですよねぇ。わかんないっすかねぇ。」
ジョッキからビールを飲み干した村山は、どうやらピンときていないようだ。一応先輩にあたるのだから、村山さんとか村山先輩とか呼ぶのが当たり前なのだ。無論会話の中ではそうしているのだが、それにしても村山はいつまでたっても村山のままだ。
一昨日、関東地方は猛烈な豪雨に襲われた。各地で川が氾濫し、その光景はテレビで何度も映された。だからその話題についてあれこれ言っていた筈なのだが、一杯目のビールが運ばれてくる頃から既に話は脱線気味だ。まぁ、呑みの席の雑談なんてそんなものなのだろうと思う。
「わからんなぁ。そんな綺麗な川は匂いなんてしないだろ。川って言ったって、要は水だろ。水。俺の実家は割と田舎の方にあるんだけどな、そこの川は澄んでいて、匂いなんてしないぞ。」
恐らくあれは生活臭なのだ、と栗田鉄平は思う。空気中にだって微生物は居る。だったら、命の源と言われている水の、ましてや有機物やらなにやらをたっぷり含んだ川の水には、途方もないほどの生き物が生活しているに違いない。というか、実際に居る。生きているのだから、呼吸するし、物も食う。呼吸すれば穢れた空気を吐き出すし、物を食えば排泄もする。それらが混じり合って、川は形成されているのだ。匂って当然だ、と栗田は思っている。別に嫌いな匂いではない、言うまでもなく好きな匂いではないが。何というか、不快というか、不安を煽るというか、それでいて得体の知れない温かみのある匂いだ。逆に言えば、その匂いがするほど無数の命が川の中に蔓延っているということでもある。
「村山さん、それは都会の川に慣れちゃってるからっすね。都会の川の匂いがあまりにきついから、匂わないように感じてるだけっすよ。染まっちゃいましたねぇ、都会に。」
何だよそれ、地元に住んでる友達みてぇなこと言いやがって…と村山は枝豆を噛み潰しながら呟いている。
都会の川の匂いは、生活臭ではない。あれは余分なものが多すぎる、と栗田は思う。命ではない何か。それが含まれすぎているのだ。より命の匂いを感じ取ることができるのは、やはり田舎の川なのだ。あの川の中に足を入れる時、流れに沿って無数の命が肌の表面を駆け巡っているのだ。もしかしたら、毛穴から身体の内側まで侵食されているかも知れない。自分ではない他の命に自分を侵食される。これほど気持ちの悪い事はない。自分の中に入って来た命は一体何をしているのだろう、と彼は考えた。別段明確に目的など無いのだろう。それでも、他人を侵食するのが愉しいかのように、無数の命たちはやって来る。本当に侵食されているかどうかは判然としていないが。これは何も川だけに起こる事ではない。人間社会だってそういうものなのだ。ほとんど関係のない、名もない命が、常に誰かを侵食しようと狙っている。それが行き過ぎれば、削られ、削ぎ落とされ、そして死が訪れる。無数の命の中で、ひとつひとつ命が消えていくのは、川も人間社会も同じようなものだ。まぁ、だからなんだという話なのだが。
あぁ…
不意に村山が声をあげた。
「実家の近くの川にはな、河童が出るって噂があったんだ。どうだ、すげぇだろう。」
「河童…ですか?」
河童というとあの、胡瓜を食ったり相撲をとったりするあの河童だろうか。
「胡瓜食ったり相撲とったりする河童とは違うぜ。俺のところの河童はな、川に入った奴の脚を引っ張ってな、溺れさせちまうのさ。」
村山は酔いが回ってきた、と栗田は推理した。いつものことなので、凡そこの推理は当たるだろう。某少年探偵のようなセリフを使えば、真実はいつも一つ、それは村山が酔っている、という事だ。奴が家路につけなくなる前に、早いとこお開きにしておこう。
久しぶりの帰省である。栗田は今、橋の上から川の流れを見つめていた。環境が変わったからか寝付けずに、ふらふらと散歩をしていた。午前二時。川は墨汁を流したかのような真っ黒い色をしていて、心細い街灯に照らされてぬらぬらと不気味に光っている。見えないが、居る。そこには無数の命が流れている。
不意にガサッと音がした。
ー河童か…
村山の言葉に影響されるとは予想外だったが、川沿いの草叢から音がした時、反射的にそう思ってしまったのだから仕方がない。
俺を…引き摺り込もうとしているのだろうか…
引き摺り込まれたらどうなるのだろうか。まぁまず間違いなく死ぬだろう。川の水に溺れながら…無数の命が、身体中の毛穴という毛穴から侵食し、肉を貪り、血を啜る。口からだって、目からだって入ってくるだろう。そんな事を想像するのは、少し気持ち悪い。或いは、人は河童のような存在に出会う事によって、死んでいくのかも知れない。河童に出会う事で、否が応でも命たちの中に引き摺り込まれる。後は、その命たちが、自分の身体を侵食していくのをじっと、ただじっと、ひたすら待ち続けるだけの日々が訪れる。そしてその時は人生の中で、意外と早く訪れる。河童に出会うのは、子供の頃と相場が決まっているのだ。
でももし、本当にそうだったとしたら。そんな風に死んでいくのだとしたら。それは…
厭だな…
と栗田鉄平は思った。
ー河童ー
百鬼夜行#2〜時代が生んだ怪鳥〜
第2回は「以津真天」(いつまで)についてご紹介します。
以津真天が最初に登場するのは「太平記」の中の記述です。1334年、疫病が流行し、死者が多くでた頃に、巨大な怪鳥が現れます。その怪鳥は「いつまでも、いつまでも」と鳴き続け(そんなわけあるかいな)人々を恐れさせたのです。のちに怪鳥は退治されますが、そのころは特に固有の名前は与えられていませんでした。顔つきは人間のようだった、との記述もあるとのこと。
"以津真天"という言葉が用いられたのは、江戸時代。鳥山石燕という画家が、太平記をもとに百鬼夜行図を製作した際、その特異な鳴き声にちなんで名付けられたと言います。石燕さんは物好きですね。そんな石燕さんの絵、僕は大好きなんですけどね。
昭和以降の妖怪関連の文献には「戦乱や飢餓などで死んだ死体を放っておくと、その近くに現れる」とされ「いつまで放っておくのか」との意で「いつまで、いつまで」と鳴くという性質が追加されています。また、正体は亡くなった人の怨念であるという解説もあります。ここでは主に、この昭和以降に追加された属性についてを主体として話を展開していきたいと思っています。
すべての怪異は意味があって成り立ちます。
それはこの怨念怪鳥くんも例外ではなく、こやつが成り立つための条件がいくつか存在すると思うのです。
1「死者の魂」という概念が存在する
2戦乱や飢餓などで、度々多くの人が死ぬ
3死者を葬るシステムが完全に行き届いていない
とまぁ、ざっくりいえばこの3つになるでしょうか。今でも死者の霊魂という考えかたはありますが、2、3の条件は現代日本においてはほぼ成り立たないと言っていいでしょう。すなわち、以津真天は前述の条件を全て満たせるような時代にしか存在することができないということになるのです。この妖怪に昭和以降に付与された属性がある限り、都会のビル群の上を悠々と飛ぶことも、誰もいない森の木の枝に佇むこともできないのです。これは時代の特色が色濃く反映された妖怪だったのです。当時の人々が、戦乱や飢餓に見舞われ、それを供養する場もなく、そしてなにより人間の魂というのも大切にしながら生活していたという事実が、以津真天には宿っているのです。(実際は昭和以降に付与された説明なので、その時代がそういうものだと考えられていた、という方が正しい)
このように、荒唐無稽な作り物と思われがちな妖怪という存在も、実は様々なものに縛られながら生きているのです。そして今回の以津真天は、人々の生活や風習、特に「時代」との関連性に強く影響されて生まれた、そんな妖怪だったのです。
読んでくださいましてありがとうございます。
よろしければ、また次回。