ことばの海

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百鬼夜行#2【序】

戦があった。

さほど大きな合戦ではなかった。それでも人が争えば死人も出る、死人が出るから悲しむ者も出る。

嘆かわしい事だ…

玄海は思う。仏門に入り3年。それなりに村の者にも慕われてきた。玄海はそこそこの規模の村の、これまたそこそこの大きさの寺の住職をしている。宗教とは民を導き救う役目を担っている、というのが彼の考え方だ。本当に仏がいるとか、加護があるとか、そういったものは二の次だ。宗教を信奉することで少しでも前向きに、あるいは少しでも安らかに暮らすことができればそれでいい。仏などは、見たいと思う者が勝手に見るもので、居ると主張する者がいればそれでいいし、居ないと主張する者が居てもそれはそれでいい。要は何か拠り所があれば良い。

だから玄海には仏は見えない。見たいとも思わない。玄海はただ、自分の言葉で人々を救いたいだけなのだ。僧侶という肩書きは、その言葉の救う力を増幅させるための一つの道具にすぎない。村の者たちは、仏の言葉だと信じて聞いているのだろうか。だとしたら私は…私は偽物だ。いや、偽物だっていい。それで誰かが救われるのならば。

「先生、玄海先生」

村長の嘉助である。玄海は住職として務めるだけでなく、村の者に読み書きを教えている。ゆえに先生と呼ばれるのだ。おかげで寺はいつも賑やかである。

「ようやく収まったみてぇだが、みんなやられちまっただよ。仲間が死んでるところを見るのは、生きてる村のもんも辛ぇだろうよ。どうしたらいいだかね、先生。」

玄海には妖怪が見える。見ようとしているから見えるのだ、と彼は思う。そう、思い返せばそれが目的だったのだ。僧になれば、妖怪やら怪異やらを鎮めるために呼ばれるのではないか、そして古今東西の怪奇出会えるのではないか…そう考えたからだった。気味の悪い趣味である。が、そんなことは殆どなかった。だからといって興味は尽きた訳ではない。本当に偽物の坊主だなぁ…と思う。

「私が全て弔います。お亡くなりになった方々を、寺まで運んでいただきたい。」

「わかっただ。だども、村の西の方は殆ど生きてるもんが居らなんだ。人手が足りないだよ。」

村の西側は元々人が多かった。だから人が多く死んだのだ。胸が痛む。人の死は、誰だって目の当たりにすればつらい。

「そちらは私も手伝いましょう」

夕日の見える西の空を見上げると…

鳥が飛んでいた。大きな鳥だ。聞いたこともないような不気味な声で啼いている。三羽いるだろうか。彼らは村の西側の、ちょうど死人が沢山出た村の西側の空を気怠そうに旋回していた。

「なんだぁ、あの鳥は。見たことがねぇ…不気味な鳥だなぁ。」

鳥は相変わらず啼いて…いや、泣いているように聞こえる。遠くてはっきり見えないが、なんとなく顔も人の面のように…見える。今の刻限は逢魔時といって、人外のものに出会ったり、怪異に見舞われたりしやすくなる時間で…いや、そんなことはどうだっていい。今は目に映るあの鳥のことだけを考えたい。私はあの鳥を知っている。見たい、もっと近くで。彼は、そう彼らは…。

「あ…あの鳥は。間違いない。」

 

    ー以津真天ー

 

 

分岐器の人たち。

あぁ、この人に出会ってしまったから自分の人生が変わったのだろうなぁ…という人たちは意外と多くいる。人生を左右する、というとそれは言い過ぎだとは思うが、それでもこの人と出会わなかったら絶対にいまの自分を作る要素の、少なくとも1つは欠落していただろうなぁと思う人は居るのだ。だから、まるで線路の分岐器ようだ、と陳腐な比喩を用いてみたわけなのさ。

 

というのも、今日久しぶりに分岐器のひとりと言葉を交わしたから、こんな思いに駆られているのかも知れない。振り返ってみてもその出会いが良かったのか、悪かったのか、そこの所は未だによく分からない。分からないが、良い出会いだったのだと信じたい私がそこに居る。それで充分だと思いたい。充分だと思っていれば良いんじゃないかな。

 

自分は自分で作られているようで、多分皮の内側には今まで他人から得てきた言葉やら、知識やら、記憶やら、もう何なのか判然としない塊やらが、ドロドロとスープのように溶け合って詰め込まれている。他人無しに自分を語ることはできない。他人がいなければ自分を証明してくれる人は居ない。しかし、他人と自分を分断している何かは恐ろしく有能で、何物も通さないようにできている。そんな不安定な自分という存在は、同じく不安定な他人と共鳴して、混じり合う一歩手前まで進んで、お互いを変えていくのだろう。

 

私にとってあの人は、どういう人だったのか。それは誰にもわからないのかも知れない。でもあの人が居なかったら、もしかしたら…

そして私が居なかったなら、誰かの人生の何かは、今あるカタチとは違ったものになっていたのだろうか。

そんなことを取り留めなく考えてた、過去に想いを馳せる。

 

そんなことしても、何も意味は無いんだけどさ。

百鬼夜行#1〜見えないものを見ようとして、彼らは鬼を創り出した〜

皆さん、妖怪や幽霊は好きですか?

彼らにも存在する理由や、生まれてきた意味があります。それを考えていくと、彼らのことがもっともっと好きになっていくと思うのです。という訳で、しばらくシリーズ物として、妖怪や幽霊について書いていこうと思います。え?興味がない?ははっ、ご冗談を。

 

さて、初回は「鬼」についてです。鬼というと皆さんはどういう姿を想像しますか?桃太郎に出でくるような、ツノが生えていて虎皮のパンツを履いていて…というものが、現代人の鬼に対する最もポピュラーなイメージなのではないでしょうか。しかしながら、鬼には様々な形態があります。

 


【1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。】

(Wikipediaより引用)

これは文芸評論家の馬場あき子氏による鬼の分類です。

鬼という存在は非常に幅広く、姿形にも様々なものがあるということが分かります。そもそも鬼のルーツは中国で、分かりやすくいえば怨霊や悪霊のことを指す言葉だったようです。しかしながら、それが仏教陰陽道と結びついた結果、様々な形態の鬼が日本で生まれたのです。

 

と、難しい話になってしまいましたが、ここまでは「鬼は様々なものと結びついて、いろいろな形態ができた」ということを取り敢えず分かっていただければ十分です。実際私もよく分かっていませんから…笑

私が考えていることは、なぜ鬼が必要だったかということです。なぜこれだけ多種多様な場面に、それこそ売れっ子芸能人のように鬼が使われたのか、そこが今回のポイントです。

まず少し前の話に戻りますが、鬼は元々悪霊や怨霊などを指す言葉でした。日本に鬼という言葉が入ってきてからも、しばらくはその使い方をされていたのではないかと思います。ここでの鬼の属性は怨霊や悪霊と同じで「怖い・悪い・怒りや悲しみを抱えている・人ではない」というものだと思います。そしてもう1つ重要な属性があります。それは「目に見えない」ということです。目に見えないということは、鬼に姿形の定型文がないということです。すなわち、イメージする人がいればいるほど姿形に種類が生まれていくのです。

そして、持っていた属性もフルに活用されます。最初の鬼の分類を見てください。どうですか?鬼の元々持っていた属性の少なくとも1つに、各分類の鬼が当てはまりませんか?例えば「悪い」という属性は、仏敵、あるいは桃太郎の鬼のように退治される対象になります。また「人ではない」という属性は、鬼のように強いという言葉のように、まるで常人ではないかのようなという表現として使われます。

そしてその全てが、元々形のないものなのです。宗教系であれば想像のものですし、鬼のような〜という言葉も目には見えません。鬼を見た!という話もありますが、恐らくそれは鬼以外の何かに鬼を投影したもので、それはその見た人の恐怖から生まれるものであり、これまた目に見えません。すなわち、様々な種類の鬼は「目には見えないが、見えないままでは困るものを補完するために生まれた」と考えることができると思うのです。もちろん、上記の属性から外れてはいけない、という制約はあります。それがなかったら別に鬼じゃなくてもいいので…

少しお話をします。

あなたの家の近くに「夜に通った人が忽然と消えてしまう橋」があります。なぜ消えるのか理由は一切分かりません。あなたはどうしますか?調べても理由が分からなければ、恐らくその橋を夜間に通ることを避けなければいけないでしょう。では、その理由が「通った人を鬼が食べているから」だとすればどうでしょう。あなたには新しく、鬼を退治するという選択肢が生まれます。

そうです。見えないまま、理由が分からないままだと、どうすることもできない事というのは、世の中にたくさんあります。それを補完する意味で、鬼は生まれたのではないでしょうか。現在ではこのポジションの一部を、科学が担っています。ある事象に理由や原因を付与することで、対策や付き合い方、あるいは安心が与えられるということは、多々あることです。

 

この考え方は、色々な妖怪や幽霊の生まれた理由に関わってくるものだと思います。今回の鬼は、色々なパターンがあったので分かりやすいと思い、取り上げさせて頂きました。基本、私の妖怪や幽霊に対する考え方は、このようなテイストが入っているものとして読んでください。

 

次回からは、個人的には好きな魑魅魍魎たちを取り上げていきます。よろしかったら是非、また次回。

 

 

旅立つ夏への手紙

なんとなくだるい。

夏はそんな季節だ。

半透明な薄い膜が、絶えず身体を覆っていて、その膜の中には、自分しか感じえない暑さとだるさの入り混じった液体とも気体ともつかぬ何かが、まるで浮遊霊のように漂っている。その膜は破れることはなく、いつまでも不快な何かを湛えている。

そのくせ、太陽の光はその膜をすり抜けてやってくる。光は身体に音もなく入っていく。火照った肉からは、汗が逃げるように去っていき、垂れた雫はアスファルトの上で灼かれていく。アスファルトを黒く濡らしたその汗も、押し寄せる日差しの波に飲み込まれて消える。まるで自分が、夏の意思に従わされ、夏を体現しているかのようだ。

遠くで聞こえる誰かの声も、夏の前に脆くも崩れていく。自分の思考も記憶も、汗と一緒に流れ出しているのだろうか。

身体を焦がす赤い昼間と、蒸されるような箱の中の夜を幾度となく越えていくうちに、気づくと、夏は遠くへ旅に出てしまった。

さようなら。また会う日まで、お元気で。

若者の話

よく「最近の若者は」と言われる。

私自身、一応若者の部類に入るだろうというわけで、世間が今の若者に対してどういう感情を抱いているのか気になるところではある。

歳を重ねている方々も、時代を辿れば若者だった時期があるわけで、きっとその時も「最近の若者は」と言われて育ってきたのだと思う。時代によって価値観だったり、文化だったりは多少なりとも変わっていくもので、特に科学技術が目まぐるしく進歩していく(進歩=良い、というわけではない)現代において、それは顕著だったりする。すなわち、歳上の方々が自分たちの価値観や文化を持ち出して、それを無理矢理当て嵌めようとしているわけで(まぁ多分私たちも歳をとったらそうするのだろうが)少なくとも理解しようとする姿勢は、是非ともとって欲しいものである。言うまでもなく、若者に非がないというわけではない。頭ごなしに否定するのは如何なものかという話である。その点、最近「クールジャパン」という言葉に代表されるように、いわゆるサブカルチャーが見直されていることはとても興味深い。麻生さんがなんとなくサブカルを認めているようなスタンスであることに加えて、リオオリンピック閉会式での日本の演出など、政府も一部そういった新たな文化(作品が新しいかどうかではなく、サブカルを取り入れることが新しい)を取り入れているように感じる。実際にサブカルチャーに関連する経済効果は凄まじいものがあり、海外にも広まっている分野なので推進して損はないかと思う。

 

他に若者世代の文化でよく言われることがあるものは、所謂「若者言葉」についてである。「ヤバい」「マジ」などは既に古いタイプの若者言葉になっていて、事実50代の方が使って会話していたので、比較的幅広い年代で用いられている言葉と考えてよいはずだ。比較的新しいものとしては「とりま」(取り敢えず、まぁ)「りょ・り」(了解)「ワンチャン」(ワンチャンス)など様々である。(本当に新しいのだろうか…不安)また、これに加えて、所謂ネット用語と呼ばれるものまで存在し、日々新しい言葉ができては浸透したりしなかったり、長く使われたり使われなかったりして、それこそ目まぐるしく変化している。もし若者言葉で辞書を作ることになったら、編集部の方々は相当苦労するだろう。出版する頃には、既に使われなくなっていたり、新たな言葉が流行していたりするかもしれないからだ。

私個人の感想であるが、若者言葉には汎用性があるものが多いと感じるのだ。例えば先述の「ワンチャン」である。説明では「ワンチャンス」のことであるとしたが、実際は微妙に使い方が異なる。どちらかといえば「もしかしたら」に近い意味で使われると思う。チャンス=好機ならば、基本的にワンチャンもプラスの意味で使われるべきだが、実際は「この前のテスト、ワンチャン赤点だよ〜」のようにマイナスの意味としても使用される。そうでなくても、若者言葉の汎用性については、「ヤバい」や「マジ」について考えて頂ければ分かるだろう。どんな会話にも組み込めるといっても過言ではない。そう考えると、なんとなく私たち若い世代の会話は、使用している単語の絶対数が少ないように思えるのだ。何も、たくさん単語を知らない人ばかりが増えてしまったわけではない。同じ世代で意思疎通を図る場合、そのような世代で流行っている言葉を用いた方がより共感を得やすいと思うのだ。(そうしていくうちに語彙力不足に繋がっている感じは否めないのだが)故に若者言葉は流行る。だが、元々も日本語とはもっと細かく、且つ曖昧なニュアンスを表現するものだったはずである。

先日、留学生が日本語で書類を作成していた。彼が作成した書類に「分からないことがあったら、気楽にご連絡ください」と書かれていた。そこは気楽にじゃなくて、「気軽に」だね…と言った私に彼はこう返した。

「気楽と気軽ってどう違うんですか?」

そういえばそんなことは考えたことが無かった。何となく場面や状況で使い分けていたが、これだ!という違いは示すことができなかった。同じようで同じではない、そのような日本語はたくさんあるように思う。それを私たちは使い分けて生活している。その事実には少し感動した。

ではなぜ若者はそれとは逆の、汎用性に富み、短く、ノリのようなもので使える言葉を多用するのか。私個人としては、インターネットなどの普及によって、素早く会話のやり取りができるようになったから、というものが1つの理由としてあると考える。素早くやり取りができるようになったということは、素早くやり取りすることが要求されるようになった、ということでもある。つまり、いちいちたくさんの言葉から自分が伝えたい言葉を吟味するより、大まかに伝わる汎用性のある言葉を使った方が楽、ということである。だから若者言葉には省略形の言葉が多い。あるいは、若者言葉でない日本語を使った場合の方が、相手に伝わりにくいということである。これは単に語彙力不足といったらそれまでであるが、語彙力を補わなくとも、汎用性のある若者言葉がその足りない部分をカバーしてくれるのだ。結論、若者言葉を使った方が楽なのである。

しかし、元々の日本語を使う機会がなくなってしまったのかというとそうではない。大学生になるとレポートを作成する機会が増える。すなわち、自分の調べ上げたことや自分の考察を、他人に分かりやすく文章で伝えることが重要になってくる。そういった文章の場合、説明には微妙な違いや含みを持たせる言葉を用いた方が、自分の主張するべきことを細かく、そして的確に文章に置き換えることができる。しかしながら、それは自分が文章に表す物事に詳しいか、あるいは強く興味をもっているかのどちらかでなければならない。というのも、自分が文章に表したい!と強く思う題材でなければ、言葉を吟味して自分の個性や主張を表現する意欲が、著しく失われてしまうからである。

日本のロックバンド、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカル、後藤正文氏には次のようなエピソードがある。

学生時代、先輩から「なぜお前は英語で歌詞を書くんだ」との質問に、後藤氏は「別に言いたいことがないから、言語はなんだっていいんだ」という旨の返答をしたというものだ。これについて後に後藤氏は「今は言いたいことがあるから、日本語を使う」という趣旨の発言をしている。

すなわちこれは「自分が言いたいこと」がなければ、相手に伝わるかどうかなんてどうでもいい、ということであり、逆に「自分が言いたいこと」があるのなら、それを誰かに伝えるために手段を考える、ということである。私は、若者言葉を多用している人は、その会話において自分が相手に言いたいこと、伝えたいことの重要度が低いのだと考える。例えば自分の好きな物事の話をするときに「〇〇の〇〇がマジでヤバい」で終わらせたくないはずだ。もしそれで満足する人がいれば、その興味は偽物だ。他人に自分の考えていることを的確に伝えようとすれば、必然的に言葉を選ぶようになる…と私は思うのである。

 

結論、私が何を言いたいのかというと、正しい日本語を使うための第一歩は、何かしらの物事に対して強い興味を抱くことから始まっても良いのではないか、ということである。それを自分以外の誰かに伝えようとするとき、必ず言葉を吟味する時が来る。もし語彙力不足で、自分の思うことが的確に文字にできなかった時、おそらくもどかしい思いに駆られるだろう。そして、もっと日本語を知ろうと思える。そういう過程も、日本語を正しく使うことに繋がる1つの道としてあって良いと考える。特に今の若者の世代は、多様な文化影響で、非常に趣向が広がっている。1つの話題に対しては興味のわかない人も大勢いるだろうが、まずは自分の好きなこと、興味のあることを突き詰めることから始めても良いのではないだろうか。

 

 

最後まで読んでくださいましてありがとうございます。次回からは文量を少なめにしようかと思っています。よろしければ次回も読んでください。

リンゴと切り身と厭な思い出

リンゴって素敵だと思うんですよ。ほら、日本の果物といえばリンゴじゃないですか。まぁ完全に独断と偏見で言っていますけど、とにかくリンゴなんです。外見は真っ赤。赤は目を引きますよね。

「紅一点」という言葉があります。この言葉は「男性の集団の中に1人だけ女性がいる」という意味の他に、「ひときわ目立つこと」という意味も持ち合わせています。赤は目立つっていうことです。(元々、紅一点の赤は石榴の赤なんですけどね)見た目が美しいっていうのは、それだけで価値があるものだと思いますが……どっこい私は青リンゴの方が好きです。なんとなく青リンゴの方が香り高い気がするんですよね。ちょっと高いんですけどね、青リンゴ。

まぁ、平たく言えば果物全般が好きです。食べること以上に、愛でることが。そんなことができるのは、そう、青果店。あるいはスーパーの青果コーナーです。うず高く果物たちが積まれている様子は、なんとなく興奮します。興奮するんですよ。興奮しません?おかしいですかね?でもカットされていたり、シールが貼られていたり、包装されていたりすると、もうこれはダメです。興醒めです。その点に関して言えば、海外の青果売り場は、私の好むイメージに近いものがありますね。

 

ちなみに鮮魚売り場も好きです。これまた丸々一匹がずらーっと並んでいるものが好ましいですね。開きだったり、切り身だったりしたら良くないですね。練り物?論外です。

 

悪く言えば、果物にしても鮮魚にしても、死んでいるわけです。そう、彼らはもう死んでいるんです。でも、どれだけ生前の姿に近いかというのはとても大切で、言い換えればどれだけ完璧なカタチとして存在しているか、ここが肝だと思うわけです。完璧なカタチには魂が宿るっていう、まぁそんな感じです。

 

 

 時折、お亡くなりになった人のことを「眠っているみたいだ」と、表現することがありますよね。あるいは「今にも〜しそうだ」のような表現です。これも、その人のカタチがほぼ完璧に残っているからだと思うのです。仮にバラバラに切り刻まれたご遺体があったとして、それにこのような表現を使うことはありません。「死んでいる」という状態は同じですから、違いはそのカタチが、元々の姿と同じか、大きくかけ離れているか、ということのみです。バラバラな死体が動き出したら、そりゃーもうホラーですよ。まぁ綺麗な死体が動いてもホラーなんですけどね。

あるいは、精巧にできた生き物の模型に対して「動き出しそう」という表現を用いますよね。これも、その模型のカタチが、その生き物の生きている姿に酷似しているからだろうと、そう思うわけです。材質は全く違いますから。タンパク質もカルシウムもない無機質ですから。彼らを動き出しそうに見せているのは、これまたカタチなんだなぁと。

創作物の中でも同じです。漫画は読みますか?あるいはアニメは見ますか?漫画の、あるいはアニメの登場人物は、殆どの人にとってその作品の中では"生きているもの"として扱われます。(最近では二次元の枠を飛び越えるような扱いを受けていることもありますが…)何れにしても、これも同じようにその認識を実現させているのは、カタチです。

いや、創作物は流石にリアルやないやろ!と思うでしょうが、この場合大切なのは「どれだけリアルか」ということよりも、「どれだけ表現したい属性に近いか」ということだと思うんです。例えば、魚の切り身。(またかよ)これが本物の魚の切り身でも、プラスチック製の魚の切り身でも、絵の魚の切り身でも、そこに与えられる属性は魚の切り身です。いくら本物でも切り身は切り身。元はリアルな魚の一部でも、切り身という属性を無視して魚本体の属性を得ることはできない。一方、たとえリアルでもプラスチック製でも絵でも、魚本体なら、あるいはそれを表現しているなら、魚本体の属性を得ることができるんじゃないかなぁと思うわけで。

 

だいぶ芯の通っていない文章になってきていますね。お恥ずかしい限りです。

 

昔、葬式に出た時を思い出しまして。もう誰の葬式だったのか覚えていないくらい昔の事で。でも1つだけ覚えていることがあります。ご遺体の鼻にね、ほら、仰向けに寝かされているから鼻の穴が見えるわけですよ。その穴に、白い詰め物が見えたんですね。これがね、当時の私はダメでした。気分が悪くなってしまいまして、何となく吐き気がするというか、そのあとの食事の唐揚げも、何となくそのご遺体から削ぎ取った肉を使っているようで、まともに食べられなかった…というのを朧げながら記憶しています。詰め物を見た時に、本能的に分かってしまったんでしょうかね。「これは生きていたころの人とは違う」と。詰め物だけだったんです。他は綺麗で、それこそ眠っているようで、でもダメだったんですね。カタチが僅かに違うだけで。あの時、明確に死体という属性が付与された…そんな風に思います。

 

そんなことを思い出しましたので、こんな感じでグダグダ書かせて頂きました。カタチって大切なんだなぁ、と。だから、完璧に近いカタチには美しさを感じてしまうんですね。そうでなければ、何となく厭な感じを受けてしまう。そいうのものが、私の根本的なところにあるのかもしれません。だから、果物にしても魚にしても、元々の姿に近い方を好む。のかな?皆さんはどうですかね。

 

兎も角、完璧なカタチには魂が宿る。これは紛れもない真実で、とても大切なことだと思うと、まぁそういう訳です。

 

だからなんだよ(笑)

 

 

と、まぁこんな感じで更新していきます。グダグダを極めたグズグズ人間が書いたような文章でしたが、最後まで読んでくださってありがとうございます。よろしければ、また次回。

 

 

 

 

 

 

嫉妬しますよ、その文才。

「文字で表現するより、言葉で表現することを得意とするタイプ」

なのだそうだ。

もちろん私が、である。

言葉で表現することが得意なら、文字で表現することだって得意な筈だろう?まぁ、この結果は、俗にいう性格診断テスト的なもので得られたわけで、特に気にかけることもないのかもしれない。気にかかるのはそんなことではなく、もっと別のこと。

人間は生きているうちに、数え切れないほどの文章に触れる。感覚的に好きな文章もあれば、嫌いな文章もある。それとは性質を異にする文章に、私は出会う時がある。

「挑みかかってくる文章」

君にこのような表現ができるのかい?お前にこういう言葉の使い方ができるかい?とまぁ、こんな具合だ。そう感じることがあるのは私だけだろうか?最近、知人が綴っていた文章が、まさにこれだった。書けるわけねぇよ、と思ってしまう。そんなもん、才能が無くちゃ書けぬよ。そこに冒頭の性格診断テストが煽ってくる。君は文字より言葉の人間だからね、と。要するに、これから書いていくのはそんな諸々に対する反抗の結晶だ。いや、結晶というには不出来で不細工な塊だ。

で、何を書くか。それは気の向くまま、なんとなく思ったことをつらつら書いていくつもりだ。そんな感じだ。そんな感じでいいんだ。

 

恐らく実際は、何かを書くことをしたかっただけ。ただ、それだけの事。