臭いと非日常
厭な臭いがした。何度か感じたことのあった臭いだったが、それでも厭だった。しかし、よくよく考えてみると、厭なのではなく、慣れない臭いだったといった方が的確な表現なのかもしれない。
私は三人の友人と共に居た。三人とも高校以来の仲である。時々こうして集まっては、何処かへ出かけているのである。明け方までサッカー中継を観ていたので、少しだけ仮眠をとってから出掛けようということになったのだが、案の定寝過ごしてしまい、全員が活動を開始したのは昼過ぎからだった。今思えば八時半ごろに一度起きた時に、全員起こしておけばよかったのだ。だが友人の一人であるマツに声をかけた時の、
「まだみんな寝てるよね。じゃあまだいいや。」
という言葉を聞いて「まぁいいか。」と、そのまま布団を被ってしまったのが間違いだったのだろう。私はこの後、友人たちから「いや、頑張って起こせよ。」というツッコミを叩き込まれることとなった。客観的に見れば、彼ら三人が起きなかったことも悪いのだが、そんなことはどうでもいいのだと思えるのが友人なのだと思う。
私たち四人の出身地には海がない。海がなければ、当然のように港もない。私が先程から感じているのは、磯の香りだったのである。身近に存在しないものに惹かれるというものが、人間の本能に染みついているのであろう。故に、人間は日常とは異なるものに興奮を覚え、或いはそのために生きているといっても過言ではないのかもしれない。私たちもその例に漏れず、久しぶりの「漁港」という非日常に少なからず気もそぞろであった。
非日常というのは、意外と日常に紛れているものである。この小さな旅だって、意識的にはそれほどまで非日常であるという気はしないものである。しかしながら、実際気分が浮ついているということは否定できない。それは違和感と言い換えてもいい。この何の変哲もない路地であっても、視界の端に映る海老や蟹の赤が、隠れた非日常を生み出している。
偏に、この非日常を演出しているのは、「慣れ」がそこに存在していないからである。磯の香りに慣れていないから、今日この日は特別なものになっている。一方で、慣れがないというものは不安も誘発させる。学生時代、新学期やクラス替えに対してあれほど敏感だったのも、不慣れな環境に放り込まれるという言いようもない不安に裏打ちされたものなのだろう。
問題は、各々が何にどれだけ慣れてしまっているのか、という部分に行き着くのだろう。そう考えると、自分という物差しで他人を測るという行為は、無駄なのではないかと思ってしまう。解体された鮪の頭を見つめながら、そんなことを考えた。未だに鼻腔には、あの慣れない臭いがやって来ている。