みきちゃん
「え?」
雨音で声が聞こえなかったから、僕は聞き返した。
「だから、今日一緒に遊ぼうよ」
嘘だ。
本当は聞こえていたけど、その時の僕には聞きたくなかった言葉だったから、諦めてくれないかなあと思ってもう一度聞き返したんだけど、やっぱりダメだった。
「やだよ、雨降ってるし」
元々今日は、かっちゃんとしゅんくんとで遊びに行く予定だったんだ。でもそれを言ってしまえば、仲間外れにされたと思って傷つくかもしれないし、もしかしたら怒るかもしれない。
そうなったら、面倒くさい。
「えー、でも」
空気読めよ、と思う。
ただでさえこの雨で、遊ぶのなんて無理かもしれないのに。
「こんなに雨降ってたら、行けるわけないじゃん」
そりゃ、車で送り迎えしてもらえる奴らはいいかもしれない。でもうちだってしゅんくんだって、自分で自転車を漕いで移動するしかないのだから、今日なんて遊べるわけないんだ。かっちゃんは、確かおじいちゃんが車で送り迎えしてくれていたっけ。そうだ、かっちゃんに電話して・・・
「じゃあ私が行くから」
そうじゃないだろ。
というか、三年生になっても女の子と遊んでいたら周りからどう見られるか。それ分かって言ってるのかよ。
「うーん。いや」
とにかく早く家に帰りたかった。びしょ濡れになった靴下を早く脱ぎたかったし、ランドセルの中のプリントも心配だった。
そもそも、傘が小さい。そりゃ子ども用の傘なのだから、小さいのは当たり前なのだが、自分の身体を雨から守ることは出来ても、ランドセルまで一緒にカバーするのは不可能だ。
ランドセルの中にはお母さんに見せなきゃいけなかったり、宿題のために使わなきゃいけないプリントなんかが入っている。濡らしてダメにして、結局怒られるのは雨じゃなくて僕なのだから、ランドセルを雨ざらしにする訳にはいかない。
そうやって、ランドセルの方だけを守るから、僕の身体はびしょ濡れである。尤も、こんなに激しい雨じゃランドセルの中身も分かったもんじゃない。だから早く帰りたい。自分の中の苛立ちが鎌首をもたげていた。
「でも、でもさ」
まだ言うか。
みきちゃんと一緒に帰る事になったのはいつからだっただろう。確か殺人事件が、いや、誘拐事件があって、それでだ。下校中、五年生の女の子が誘拐されて、そして結局殺されて見つかったんだ。ということは誘拐殺人事件だ。
「とにかく、今日は遊ばないよ」
学校では、すぐに登下校班が再編された。人数の少ない班は、近くの班と合併された。だから、みきちゃんと一緒に帰ることになったのは三年生になってからだ。
そんな事件があったけど、僕たちが住んでいるところからはそれなりに距離がある場所だったし、小学生が感知できる世界なんて自分が住んでいる街と、その街が属する市内くらいのもので、だから結局平和だった。
ビシャっと音がして、泥が脹脛に飛び散った。水溜りから、スニーカーの中にじわりと水が入り込んでくる。
「うーん」
長靴を履いてくればいい、と言ったらそれまでだが、朝はまだ雨なんて降っていかなったんだし、下校までに降るか降らないか微妙なところだったんだし、それで最初から長靴を履いてくるのは流石に馬鹿だろう。休み時間に校庭で遊びにくいし、クラスメイトにもからかわられる。なのでこのスニーカーの中の不快感は自分のせいなのだけど。
元はと言えば、このタイミングで降ってきた夕立が悪いのだし、というか、みきちゃんのことは気に食わなかったし。
なんだよ、その派手なピンクの傘。
「今日は遊べないよ。雨が降ってるからね」
僕はできるだけ優しく、でもはっきりとそう言った。
別に喧嘩する気はなかったし、かと言って一緒に遊ぶ気になんてなれなかった。鼻にかけてるんだ、こいつは。自分が少し可愛いからって、クラスで人気者だからって。
いや、それは単なる嫉妬なんだろう。みきちゃんはいい子なのは確かだ。
なんで一緒の帰り道なんだろう、と僕は思った。しかも途中からは二人きり、おまけにみきちゃんの方が家が先にあるから、僕にしてみればずっと一緒なわけだ。登下校班を再編なんてするから、こんなことになるんだ。
「わかった」
雨は止みそうになかったし、いい加減寒かったし、きっとみきちゃんだってそう思ってるだろう。
そうこうしてるうちに、ようやく僕の家の前までやってきた。ああ、早くランドセルの中身を確認しなくちゃ。もし濡れてたら、お母さんのドライヤーを使えば乾くかな。
「じゃあ・・・またね」
みきちゃんが手を振ったので、僕も手を振り返した。別に嫌いなわけじゃないんだよ、みきちゃん。
「バイバイ」
「一緒に遊ぼうよ」
またかよ。
雨音で微かにしか感じ取れなかったが、幾度となく聞いてきた科白だから、口の動きだけでも理解できた。というか、いつもそれしか言わないし。
僕はじっと彼女を見つめた。激しい夕立の中、しばらく静かに立っていた。いい革靴だから、あまり濡らしたくはないのだけど。
たしか、みきちゃんが見つかったのは十九年前の今日だった。あと何回、このやりとりを交わせば気が済むのだろう。
あの日から、みきちゃんがいない時が二年過ぎた。二年経って、みきちゃんはみきちゃんじゃなくなってて、知らない間に燃やされて、知らない間に埋められた。結局、犯人は捕まらなかった。死んだからだ。
夕立が降ったから、だからみきちゃんは今日も遊びに来たのだろう。
「今日は遊べないよ、雨が降ってるからね」
だから、結局、僕は一度もみきちゃんとは遊んでいない。
お題提供者:いづ様
お題:「夕立」
林檎
台風がやってきたから、少し昔のことを思い出した。
「だからぁ、絶対青林檎の方が美味しいんだって」
スーパーに買い物に出かけた時、「旬だから」とリンゴを籠に入れた私に、君は「買うなら青林檎だ」と言った。
「いや、それ何が違うのさ」
リンゴに拘りなんてなかったから、一番安いのを選んだ。青林檎は少し高いし、何より食べたことかなかったから、殊更選ぶこともない。
「まず香りが違うから」
陳列されている青林檎に、ぐっと顔を近づけしっかりと品定めしている。その瞳を、私は吸い寄せられるように見詰めた。
青果コーナーは、半袖の私には肌寒かった。君はいつものように長袖だったから、だから、ほんの少しイライラしていたのかもしれない。
「早く選んでよ。別にどれでもいいじゃん」
青林檎の山から、一つだけ取り出す。
「君のさ」
そこで君は言葉を切って、青林檎をカゴに入れた。
「そういうところが良くないよねぇ」
「ごめんね」
「気にしてない。カート、押すよ」
買い物カートを押す君のあとに続く。近くに貼ってあった貼り紙がふと目に入った。
「台風の影響でリンゴがたくさん落ちたから、今年は少し高くなってる、ってさ」
君は足を止め、その貼り紙を読むと「そっかー」と言ってまた歩き出した。
「リンゴもさ、可哀想だよねぇ」
不意に君が呟いた。
「どういうこと?」
「だってさ、わざわざそんな台風の時に実るから落ちちゃうわけでしょ」
まぁ、それはそうだけれども。リンゴだって、好きでその季節に実っているわけではあるまい。
「その時に実るしかなかったんじゃないの?」
或いは、種が落ちることで子孫を残すということまで考えると、寧ろその時期が一番好都合なのではないか。
「そんなの悲しすぎるよ」
私の言葉の本意を汲み取れなかったのか、君は少し寂しそうに言った。だから私も、これ以上その事に思考を巡らすことはしなかった。
結局、赤いリンゴはカゴに入ったまま精算された。後でアップルパイにでもすればいいか、と思って帰路についた。
アパートに帰ると、散らかった部屋が目に入る。ああ片付けておけばよかったな、と思うが到底無理な話だ。カレンダーすら2ヶ月前のままなのに、部屋だけ毎日綺麗にするなんて。
「しょうがないなぁ、片付けておくから、ご飯の用意よろしくね」
いつもの事のように、君がカレンダーをめくる。
「ごめん」
そう言って、私はハンドソープを泡立てた。
「仕事の書類、ちゃんと管理してないと大変だよ」
「わかってるって」
わかってる。わかってはいるのだけれど。
包丁を持つ私の手を、君が見ている。怖いのか、それとも心配なのか。いずれにしろ、そんな思いをさせてしまう私が悪い。私が悪いのだ。
「ご飯作ってる間に、お風呂入ってきなよ」
「うん。でも先に薬飲んじゃうね」
君が私に擦り寄るように近づいてきて、コップに水を注いだ。
その頃は、このまま君とふたりで朝を迎えられることに、その幸せに、私は溺れていたのだろう。
わかっていた。全部。わかりすぎているくらいに。
東京にいた頃の日々が懐かしい。もっとも、あそこは大嫌いだったが。
結局、都会は反吐が出るくらい肌に合わなくて、地元に戻ってきたのだ。
正直、少しだけ物足りなさを感じているのも事実だ。でも、あの頃に戻りたいとは思わない。
台風が去ったあとの空は、嘘みたいに青かった。せっかくだから、散歩してみるのもいいかもしれない。
わかっていた。君が長袖しか着ない理由も、毎日薬を飲まなくてはいけない理由も、私の部屋が散らかりっぱなしだった理由も、私が包丁を持ってはいけない理由も。
わかっていた。厭になるほどに。わかっていたからいけなかったんだ。結局、青林檎と赤いリンゴの違いは理解できなかったけど。
ドアを開けると、甘酸っぱい微かな匂いが鼻腔を撫でた。気のせいかもしれない。
そういえば、近くにリンゴ農家があったような気がする。いや、多分あるのだろう。
台風で落ちたのか。地面に落ちて潰れたリンゴを想像する。そう思ったら、甘酸っぱい匂いが、途端に不快だと感じた。散歩するのは、止めにしよう。
やっぱり君の言う通りだった。そんな時期に実るから悪かったんだ。でも、私たちにはその時期しかなかった。
あの時、あんな君と出会ったから惹かれたのだろうし、だから上手くいかなかったのだろうし、だから楽しかったし、苦しかったし、死にたくもなった。
昔も今も、結局、潰れた林檎を嘆くことしか、私たちにはできないのだ。
お題提供者:ふぃばろ様
お題:「林檎」
ある冬の日(終)
朝、カーテンを開けると、外は一面の雪景色だった。
昨日の夜は、久しぶりに目を覚まさなかった。それだけ深い眠りについていたということだろうか。
受験勉強のストレスもそろそろピークに達しそうで、毎日自分の神経が石臼で挽かれているような気さえする。だから、よく眠れたことは良いことだった。
視界の端に動くものを捉えて、私は墓を見た。
誰かいる。
人であることは間違いない。しゃがみ込んでいるが、ここからでは何をしているのかはっきりしたところまでは見えない。
風体から何となく老人のような気がするが、肝心の顔は卒塔婆の向こう側だ。
異質といえば何もかもが異質。
朝日が雪に反射して、ジリジリと眼球を痛めつける。
別段気にすることでもない、と私は思った。だから何だというのだろうか。
とてもとても寒かったので、暖房の効いている台所へ向かって、階段を駆け下りる。
目玉焼きの焼ける匂いがした。目玉焼きを作るのは専ら姉だ。
そうか、今日は両親と祖母が旅行に行く日だった。
父と母が元々立てていた旅行の予定と、祖母が参加しているお茶会のメンバーの旅行とが、たまたま重なってしまったのだった。
幸い休みの日であるから、姉が家事全般をこなすことで何とかなるのだった。
その日は、とても穏やかな一日だった。
目を覚ますと、倒れた日本人形が現れた。
「脅かさないでよ」
そういえば、横になっているのは私の方だった。日本人形は静かに立っているだけだ。
左を向いて寝た場合、目を覚ました瞬間、床の間の日本人形たちが目に入る。この部屋を使うようになってからしばらく経つが、まだこれには慣れないでいる。
ましてや最近は夜中に目を覚ますことが多くなっているから、常夜灯の弱い光に照らされた着物姿を見なければいけなくなった。
そんな彼や彼女は、今日も今日とて少し不気味だった。
こんな時間に目を覚ますのは、今月でもう何度目だろう。そんなことを考えながら、電灯の紐を二回引っ張った。
少し薄暗い。やはり電灯のせいなのだろうか。いつまでも古い型のものを使っているわけにはいかないか。
ゆら、と障子に影が映った。
隣は祖父母の部屋だから、そのどちらかだろうか。廊下の電気もつけずに危ないなぁと思った。
影は、ぬるりと動いていく。
違う、祖母は今日は家に居ないのだ。
そう考えた私は、急に怖くなった。
この前もこんな寒い夜だった。今もし祖父の身になにかあったら、私が対処しなければいけない。
弟はまだ小さすぎる。姉は、きっと今度も呆然としているだろう。私が、私がすべてやらなければ。そうしなければ祖父は。
急に怖くなったから、電気を消して布団に潜り込んだ。
何も起こらなければいい。何も起こらなければ。
寝覚めは最悪だった。
結局何も起こらなかったのだが、ボロボロの神経を余計にすり減らせてしまった。
人形は相変わらず微笑をたたえている。
墓には、今朝は誰も居ないみたいだ。
祖父に対して若干の罪悪感を感じていたから、昨日の夜のことをさりげなく聞こうかな、と新聞を広げている背中に声をかけようとした。
「あ」
そうか、障子に祖父の影は映らないんだ。
祖父は今も健在である。
ある冬の日(3)
「増築する」
「え」
突然祖父がそんなことを言い出したので、私は咄嗟に「どこを」と聞き返していた。
そんなの自分の家に決まっているだろうに。
「そんなの自分の家に決まってるだろ」
あれから半月が経った。
祖父は検査のために丸1日入院したものの、特に問題はなかったらしくすぐに退院した。
今は経過観察として、月に1回の通院を余儀なくされているが「ついでに病院行ってくるよ」と、本人は既にお出かけのついでのつもりらしい。
「なんで」
「高校生になったら、お前ももっとちゃんとした部屋が欲しいだろ」
孫に甘いのは全ての祖父母の特性と言っても過言ではないが、こんなにあっさりと自分のために家の増築までしてくれるとは驚いた。
尤も、私が大学生になり上京することも踏まえた上で、恐らく三つ下の弟にもその部屋を使わせるつもりなのだろう。
あの日、私は姉の叫び声で目覚めた。
まさか泥棒でも入ったか。とにかく、午前二時には似つかわしくないほど、家は騒がしくなった。
何が起こっていてもいいように、そう言い聞かせ、気を引き締めて私は部屋を出た。不思議と怖いとか驚きとか、そういった感情は出てこなかった。
祖父はトイレへと続く廊下の途中で、うつ伏せに倒れていた。
弟以外の家族は既に集まっていた。母と祖母は何度も祖父に呼びかけている。父は無言で、気道確保のためにその体をひっくり返した。姉は呆然としているようで、ただ家族の様子を見ているだけだった。
祖父は呼吸はしていたものの、呼びかけに応じる気配はなく、一二度苦しそうに咳き込んだ。
父がすぐさま祖父の頭を横に向けたので、「なんだ、意外とうちの家族は心得ているもんだな」と思ったのを覚えている。
救急車を呼ぶかどうか、という話が始まった時、祖父が身をよじって起き上がろうとした。慌てて父が体を支える。祖父は「大丈夫だ」というように左手を上げるも、結局は立ち上がれず壁によりかかって座り直した。
「大事になってからじゃ遅いし、救急車を呼んだ方がいいって」
私の頭は、急に冷静になった。
「じゃ、寒いから戻る」
今考えれば、あの状況でよく部屋に戻る気になったなと思う。家族の迅速な対応を目の当たりにしたせいか、それとも祖父がとりあえず起き上がったからか、理由は分からないがとにかくその時の私は、もうここにいる意味は無いと感じたのだった。
とてもとても寒い夜だった。
その日から私は、よく夜中に目を覚ますようになった。
ある冬の日(2)
厭だなぁ、と思った。
自分の部屋のカーテンを開けたら、墓が見えた。ごく普通の感覚なら、厭だと思うのは普通なのだろうが、部屋がなんとなく薄暗いせいか、それとも少し古めかしいせいなのか、普通とは違う異質な嫌悪感が這い上ってきた。
「これで全部か」
振り向くと、文庫本が入った段ボール箱を抱えた祖父が立っていた。
「そうだね。ありがと」
「いやぁしかし、お前にこの部屋を使わせることになるなんてなぁ」
祖父は、どこの訛りかわからない言葉を使う。地方で農業をしている家に生まれた祖父は、その父、つまり私から見て曽祖父の仕事の関係で東京に移り住んだ。
程なくして、東京は火の海になった。
「部屋は気に入ったんだけど、このスタンドがちょっと光強すぎるんだよね」
祖父は座り込んで、段ボール箱の中の文庫本をパラパラとめくった。
「そうか、まぁ好きなのを買うといいさ。今はインターネットでなんでも買えるんだろ」
今では老若男女問わず、インターネットを使うことがステータスになりつつある。
祖父もスマートフォンを持っているのだから、自分で買い物をすればそれで済む話なのだろうが、本当に拘っているものを買う時は自分の目で見ないと気が済まないらしく、時折趣味に使う物を買いに出掛けていく。
気晴らしも兼ねて出掛けられるし、何より家に篭もりっきりでボケられたりでもしたら困るので、そういう意味ではとても良い習慣であると言えるだろう。
いずれにしても、しばらくはこの環境で過ごさなければならない。
スタンドを新しいものに交換した。
障子の隙間から漏れてくる冷気は、やっぱり少し気になる。
少し古いということもあって、この部屋にはエアコンがない。暖を取るために灯油ストーブを使うのだが、この交換がそれなりに面倒くさい。
2階から階段を降りて、裏口から外へ。刺すような12月の空気から一刻も早く逃れたい思いで、いそいそと灯油を注ぐ。そしてずっしりと重くなった灯油缶を、よろめきながら運ぶ。
さながら、軟弱な兵士が大砲の玉を運搬しているかのような恰好だ。
そんな足取りで運んでいるものだから、今日は部屋の入口の柱に、灯油缶を思いきりぶつけてしまった。柱には、小さな傷がついた。
怒られるほどのものでもないし、そんなことで怒られる歳でもないから多分大丈夫なのだろうが、一応家族には黙っておいた。
ともかく、この部屋での生活にも慣れた。
窓から見えるお墓も、日常の風景の一部になってしまえば、特に何も感じることもないし、WiFiの電波が弱いこと以外、この部屋に特に不満などなかった。
最初の頃この部屋に漂っていた祖父の整髪料の匂いも、いつしか私の生活臭の中に消えてしまっていた。
そして、祖父が倒れた。
ある冬の日(1)
あれは中学生の頃だっただろうか。
まだ実家は増築されていなかったから、私が高校生より前だったことははっきり覚えている。
高校生になり、私は部活のため遅くまで帰ってこないことが多くなった。
そして、生活リズムが他の家族と大きくズレるようになったので、半ば隔離されるように増築された部屋に追いやられたのである。
今思えば、それは家族なりの配慮だったのかもしれない。最初に増築を提案した祖父は、
「思ったより広い部屋だろ。お前の好きなように使っていいからな。しっかり勉強するんだぞ」
と嬉しそうに言っていたから、部屋の増築も、孫を甘やかすことの一部だったのかもしれない。
確かに、高校生は一般的に言えば多感な時期だし、一人になれる空間はほぼ必須のものであるだろう。
まぁ私は部活で外に出ていることがほとんどだったし、恋人を家に連れてくるようなこともなかったから、その部屋のありがたみが分かったのは、部活を引退して本格的に大学受験に向けて勉強を開始した辺りからだった。
そうだ、そういえばあの時も受験勉強をするために部屋を移ったのだった。
大学受験ではないから、高校受験の時か。つまり中学三年生の時ということになる。
部屋の布団がひどく重かったのを覚えているから、きっと冬だったのだろう。
思い出した。あれがあったのは、中学三年生の冬だ。
その頃の私は、自宅からほど近くにある高校への進学を考えていた。
父も母も、4つ上の姉もその高校に通っていたから、自分も人並みに勉強すれば合格するだろうと、そんなことをぼんやりと考えながら過ごしていた。
姉は塾に通っていたから、専ら受験勉強は塾の自習室に夜まで篭って行なっていた。家に帰ってくると、夕食から入浴を手早く済まし、さっさと寝て朝早く起きるというのが、姉の受験期の1日だった。
一方私は塾が嫌いだったので、殆ど家で勉強に励んでいた。励んでいた、と言っても大して努力はしていなかったのだが。
その時、私は自分の部屋を持っていなかった。いつもコタツのある客間兼居間を拠点に生活していた。
そんな私を見かねて、祖父は自分の部屋を私に譲ってくれた。
祖父は歳の割にアクティブな人で、趣味の将棋を指すために電車に揺られて少し遠くの街までよく出かけていった。
だから、仕事はしていなくても、昼間は家に居ないことが多く、祖父自身も自室の必要性をあまり感じていなかったのだと思う。
まぁ実際、私が使っていた部屋が客間だから、応接の時に邪魔になるというのが最たる理由だろう。
祖父母から一番若い弟まで、3世代7人が住んでいた実家は、それなりに大きい。
私が祖父から引き継いだ部屋は、2階に上がったとこから廊下を奥に進み、一番奥の部屋の手前に位置していた。
一番奥の部屋は元祖母の部屋、私が祖父の部屋を引き継いでからは、祖父母2人の部屋になった。
70歳を越えても2人は同じ部屋で寝られるのだから、祖父母は相当に仲が良いのだろう。
私物を祖父の部屋に運び込む。
自分の住む家ではあったが、あまり足を踏み入れたことのない部屋だったから、実際じっくりとこの部屋を見たのは、それが初めてだったかもしれない。
ゆっくり息を吸うと、畳の香りと、祖父が使っている整髪料の匂いがした。
六畳ほどの部屋に、文机と鏡台、そして一貫した和の様式に不釣り合いな最新型のテレビ、それが実用的な家具の全てだった。
物が少なく、さっぱりとした部屋だったが、唯一床の間付近には色々なものが置いてあった。
鯉が描かれている掛け軸、その上には大航海時代の世界地図のようなものが掛けられている。蹴込み床には、日本人形が複数佇んでいた。ある者はガラスケースの中に、ある者はそのまま置いてあったが、どれもしっかり手入れされていた。
部屋の出入口にあたる障子を閉める。僅かな隙間から、冬の冷たい空気が流れ込んでくる。さして気にするほどではない。
日当たりが良くないのか、照明が弱いのか、昼間だというのに部屋は少し薄暗かった。文机の上にスタンドがあったのでつけてみる。旧式のそれは、いかにも目に悪そうなギラギラしたオレンジの光を放った。
「このスタンドは替えないと勉強どころじゃないな」
そこで初めて、部屋のカーテンが閉まっていることに気がついた。
そういえばこの窓は、西日が差し込むから、いつも早い時間にカーテンを閉めていたのだった。まだそんな時間ではない。
勢いよくカーテンを開け、階下の景色を眺める。
そこには小さな墓が、見えた。