林檎
台風がやってきたから、少し昔のことを思い出した。
「だからぁ、絶対青林檎の方が美味しいんだって」
スーパーに買い物に出かけた時、「旬だから」とリンゴを籠に入れた私に、君は「買うなら青林檎だ」と言った。
「いや、それ何が違うのさ」
リンゴに拘りなんてなかったから、一番安いのを選んだ。青林檎は少し高いし、何より食べたことかなかったから、殊更選ぶこともない。
「まず香りが違うから」
陳列されている青林檎に、ぐっと顔を近づけしっかりと品定めしている。その瞳を、私は吸い寄せられるように見詰めた。
青果コーナーは、半袖の私には肌寒かった。君はいつものように長袖だったから、だから、ほんの少しイライラしていたのかもしれない。
「早く選んでよ。別にどれでもいいじゃん」
青林檎の山から、一つだけ取り出す。
「君のさ」
そこで君は言葉を切って、青林檎をカゴに入れた。
「そういうところが良くないよねぇ」
「ごめんね」
「気にしてない。カート、押すよ」
買い物カートを押す君のあとに続く。近くに貼ってあった貼り紙がふと目に入った。
「台風の影響でリンゴがたくさん落ちたから、今年は少し高くなってる、ってさ」
君は足を止め、その貼り紙を読むと「そっかー」と言ってまた歩き出した。
「リンゴもさ、可哀想だよねぇ」
不意に君が呟いた。
「どういうこと?」
「だってさ、わざわざそんな台風の時に実るから落ちちゃうわけでしょ」
まぁ、それはそうだけれども。リンゴだって、好きでその季節に実っているわけではあるまい。
「その時に実るしかなかったんじゃないの?」
或いは、種が落ちることで子孫を残すということまで考えると、寧ろその時期が一番好都合なのではないか。
「そんなの悲しすぎるよ」
私の言葉の本意を汲み取れなかったのか、君は少し寂しそうに言った。だから私も、これ以上その事に思考を巡らすことはしなかった。
結局、赤いリンゴはカゴに入ったまま精算された。後でアップルパイにでもすればいいか、と思って帰路についた。
アパートに帰ると、散らかった部屋が目に入る。ああ片付けておけばよかったな、と思うが到底無理な話だ。カレンダーすら2ヶ月前のままなのに、部屋だけ毎日綺麗にするなんて。
「しょうがないなぁ、片付けておくから、ご飯の用意よろしくね」
いつもの事のように、君がカレンダーをめくる。
「ごめん」
そう言って、私はハンドソープを泡立てた。
「仕事の書類、ちゃんと管理してないと大変だよ」
「わかってるって」
わかってる。わかってはいるのだけれど。
包丁を持つ私の手を、君が見ている。怖いのか、それとも心配なのか。いずれにしろ、そんな思いをさせてしまう私が悪い。私が悪いのだ。
「ご飯作ってる間に、お風呂入ってきなよ」
「うん。でも先に薬飲んじゃうね」
君が私に擦り寄るように近づいてきて、コップに水を注いだ。
その頃は、このまま君とふたりで朝を迎えられることに、その幸せに、私は溺れていたのだろう。
わかっていた。全部。わかりすぎているくらいに。
東京にいた頃の日々が懐かしい。もっとも、あそこは大嫌いだったが。
結局、都会は反吐が出るくらい肌に合わなくて、地元に戻ってきたのだ。
正直、少しだけ物足りなさを感じているのも事実だ。でも、あの頃に戻りたいとは思わない。
台風が去ったあとの空は、嘘みたいに青かった。せっかくだから、散歩してみるのもいいかもしれない。
わかっていた。君が長袖しか着ない理由も、毎日薬を飲まなくてはいけない理由も、私の部屋が散らかりっぱなしだった理由も、私が包丁を持ってはいけない理由も。
わかっていた。厭になるほどに。わかっていたからいけなかったんだ。結局、青林檎と赤いリンゴの違いは理解できなかったけど。
ドアを開けると、甘酸っぱい微かな匂いが鼻腔を撫でた。気のせいかもしれない。
そういえば、近くにリンゴ農家があったような気がする。いや、多分あるのだろう。
台風で落ちたのか。地面に落ちて潰れたリンゴを想像する。そう思ったら、甘酸っぱい匂いが、途端に不快だと感じた。散歩するのは、止めにしよう。
やっぱり君の言う通りだった。そんな時期に実るから悪かったんだ。でも、私たちにはその時期しかなかった。
あの時、あんな君と出会ったから惹かれたのだろうし、だから上手くいかなかったのだろうし、だから楽しかったし、苦しかったし、死にたくもなった。
昔も今も、結局、潰れた林檎を嘆くことしか、私たちにはできないのだ。
お題提供者:ふぃばろ様
お題:「林檎」