ことばの海

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ある冬の日(1)

あれは中学生の頃だっただろうか。

まだ実家は増築されていなかったから、私が高校生より前だったことははっきり覚えている。

高校生になり、私は部活のため遅くまで帰ってこないことが多くなった。

そして、生活リズムが他の家族と大きくズレるようになったので、半ば隔離されるように増築された部屋に追いやられたのである。

今思えば、それは家族なりの配慮だったのかもしれない。最初に増築を提案した祖父は、

「思ったより広い部屋だろ。お前の好きなように使っていいからな。しっかり勉強するんだぞ」

と嬉しそうに言っていたから、部屋の増築も、孫を甘やかすことの一部だったのかもしれない。

確かに、高校生は一般的に言えば多感な時期だし、一人になれる空間はほぼ必須のものであるだろう。

まぁ私は部活で外に出ていることがほとんどだったし、恋人を家に連れてくるようなこともなかったから、その部屋のありがたみが分かったのは、部活を引退して本格的に大学受験に向けて勉強を開始した辺りからだった。

そうだ、そういえばあの時も受験勉強をするために部屋を移ったのだった。

大学受験ではないから、高校受験の時か。つまり中学三年生の時ということになる。

部屋の布団がひどく重かったのを覚えているから、きっと冬だったのだろう。

思い出した。あれがあったのは、中学三年生の冬だ。

 

その頃の私は、自宅からほど近くにある高校への進学を考えていた。

父も母も、4つ上の姉もその高校に通っていたから、自分も人並みに勉強すれば合格するだろうと、そんなことをぼんやりと考えながら過ごしていた。

姉は塾に通っていたから、専ら受験勉強は塾の自習室に夜まで篭って行なっていた。家に帰ってくると、夕食から入浴を手早く済まし、さっさと寝て朝早く起きるというのが、姉の受験期の1日だった。

一方私は塾が嫌いだったので、殆ど家で勉強に励んでいた。励んでいた、と言っても大して努力はしていなかったのだが。

その時、私は自分の部屋を持っていなかった。いつもコタツのある客間兼居間を拠点に生活していた。

そんな私を見かねて、祖父は自分の部屋を私に譲ってくれた。

祖父は歳の割にアクティブな人で、趣味の将棋を指すために電車に揺られて少し遠くの街までよく出かけていった。

だから、仕事はしていなくても、昼間は家に居ないことが多く、祖父自身も自室の必要性をあまり感じていなかったのだと思う。

まぁ実際、私が使っていた部屋が客間だから、応接の時に邪魔になるというのが最たる理由だろう。

祖父母から一番若い弟まで、3世代7人が住んでいた実家は、それなりに大きい。

私が祖父から引き継いだ部屋は、2階に上がったとこから廊下を奥に進み、一番奥の部屋の手前に位置していた。

一番奥の部屋は元祖母の部屋、私が祖父の部屋を引き継いでからは、祖父母2人の部屋になった。

70歳を越えても2人は同じ部屋で寝られるのだから、祖父母は相当に仲が良いのだろう。

 

私物を祖父の部屋に運び込む。

自分の住む家ではあったが、あまり足を踏み入れたことのない部屋だったから、実際じっくりとこの部屋を見たのは、それが初めてだったかもしれない。

ゆっくり息を吸うと、畳の香りと、祖父が使っている整髪料の匂いがした。

六畳ほどの部屋に、文机と鏡台、そして一貫した和の様式に不釣り合いな最新型のテレビ、それが実用的な家具の全てだった。

物が少なく、さっぱりとした部屋だったが、唯一床の間付近には色々なものが置いてあった。

鯉が描かれている掛け軸、その上には大航海時代の世界地図のようなものが掛けられている。蹴込み床には、日本人形が複数佇んでいた。ある者はガラスケースの中に、ある者はそのまま置いてあったが、どれもしっかり手入れされていた。

部屋の出入口にあたる障子を閉める。僅かな隙間から、冬の冷たい空気が流れ込んでくる。さして気にするほどではない。

日当たりが良くないのか、照明が弱いのか、昼間だというのに部屋は少し薄暗かった。文机の上にスタンドがあったのでつけてみる。旧式のそれは、いかにも目に悪そうなギラギラしたオレンジの光を放った。

「このスタンドは替えないと勉強どころじゃないな」

そこで初めて、部屋のカーテンが閉まっていることに気がついた。

そういえばこの窓は、西日が差し込むから、いつも早い時間にカーテンを閉めていたのだった。まだそんな時間ではない。

勢いよくカーテンを開け、階下の景色を眺める。

そこには小さな墓が、見えた。