ことばの海

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左耳

その日の目覚めは最悪だった。目覚ましの音を鼓膜が拾ったが、なぜか左耳だけが外界から隔離されていた。何年振りかに味わうこの感覚。一握りの懐かしさと、途方もない煩わしさが左耳の異常事態を告げた。
 中耳炎。もしくは外耳炎。この病気に何度となくお世話になっている私は、感覚でおおよその見切りをつけた。耳鼻科を受診するのが最も手っ取り早い。
 スマホの画面を開き、近くの耳鼻科医院を検索する。東京に引っ越してからというもの、一度として病院にお世話になったことはなかった。思ったよりも、近くには多くの医院があるようで、患者を食い合わないのかと不安になるほど近くにアイコンが表示されていた。しかし、それよりも私の気を引いたのは、「本日休業」という赤い文字だった。
 「うあー。今日、祝日じゃんかー」
 イライラがピークに達し、思わず声を上げる。その声も左耳の栓を突き破ることはできず、ただ頭蓋の中に反響して消えていった。単純な祝日なら、一日安静にしていればいいが、無情にも大学には講義が存在していた。世間と合わせて休めば、職員も教授も幸せだろうと思うのだが、大学側にも大人の事情があるだろうし、大学という組織に自ら望んで入っている以上、文句は言えないのかもしれない。
 私は再び布団に潜り込んだ。この系統の病気の場合、発熱することがあり、そうでなくてもそもそもの原因が鼻風邪によるものであるから、体調は悪くて当然なのだ。小学生以来とも思われる感覚に触発され、徐々に記憶が蘇ってきた。かかりつけの耳鼻科医院の場所、緑色の合成皮革シートに覆われたソファ、鼻洗浄の時の何ともいえない感覚と、薬品を混ぜた蒸気の匂い、その全てが脳裏を駆け巡って、そのまま私の意識は混濁していった。

 強烈な空腹によって私が目を覚ますと、時計の針は既にてっぺんを回っていた。午前中の講義を全て犠牲にした睡眠でも、私の体調は一向に良くならなかった。なんといっても、左耳の不快感は筆舌に尽くしがたいものがあり、それだけで半年分のストレスに匹敵する気さえした。取り敢えずシャワーを浴びて着替えはしたものの、気分は全く晴れず、空腹を満たすためだけにバナナを二本食った。
 幸い家は大学に近いので、三限には間に合うはずである。ドアを開けると燦燦と輝く太陽が私を迎える。しばらく雨続きで、あれほどまでに太陽を望んでいたのに、今となっては嫌悪の対象でしかなかった。お気に入りの音楽を聴けば、少しは気が紛れるだろうと思い、耳にイヤホンを突っ込んだが、案の定、それも不快感を煽るものでしかなかった。この世からストレスなんて消えればいいのに、とふと思った。