ことばの海

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ある荒野にて。

 戦があった。さほど大きな合戦ではなかった。それでも人が争えば死人も出る、死人が出るから悲しむ者も出る。嘆かわしい事だ、と玄海は思う。噎せ返るような血の匂い。しかし、この匂いに慣れてしまったという事実が、如何に残酷なことであろうか。

仏門に入り三年。それなりに村の者にも慕われてきた。玄海はそこそこの規模の村の、これまたそこそこの大きさの寺の住職をしている。宗教とは民を導き救う役目を担っている、というのが彼の考え方だ。本当に仏がいるとか、加護があるとか、そういったものは二の次だ。宗教を信奉することで少しでも前向きに、あるいは少しでも安らかに暮らすことができればそれでいい。仏などは、見たいと思う者が勝手に見るもので、居ると主張する者がいればそれでいいし、居ないと主張する者が居てもそれはそれでいい。要は何か拠り所があれば良い。

 視界の端々に、血塗れになった物体が転がっている。かつて人だったそれらは、部品が外れて醜い姿と変わり果てていた。玄海は祈った。このただの肉塊のためにではない。ましてや、魂なんていうもののためにでもない。祈ることで、死んでいった者たちが救われる、そう思えることによって救われるのは、いつだって生きている者たちだ。無数の烏が死体を啄みにやって来ている。人の肉とは美味いのだろうか。そこに魂がないのなら、食ったとして何も悪いことはない。そんなことを幾度も考えたことがある。

玄海には仏は見えない。見たいとも思わない。玄海はただ、自分の言葉で人々を救いたいだけなのだ。僧侶という肩書きは、その言葉の救う力を増幅させるための一つの道具にすぎない。村の者たちは、仏の言葉だと信じて聞いているのだろうか。だとしたら私は、私は偽物だ。いや、偽物だっていい。それで誰かが救われるのならば、それでいいのだ。

泣き声が聞こえる。か細く、こもったような泣き声のする方を向くと、一人の少女があった。父親と思しきものが、傍らに横たわっていた。人が死ぬというのは悲しみしか生まない。宗教とは、残された者のために、或いは生きようとする者のためにあるべきだ。西洋では、その宗教をめぐって戦が起こったりしていると聞いたことがある。それならば、彼らにとっての宗教とは何なのか。何のための宗教だろうか。

「私が、私が弔いましょう。」

 少女の汚れた頬を、洗い流すように涙が流れた。その涙は止まることを知らず、やがて音それは雨になった。横たわっている彼の、見開いている瞼を閉じる。そしてそれは、ただの肉塊になった。