ことばの海

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「人」嫌い

電車から流れ出でくる無数の人々を見送りながら、私は立っていた。それらがエレベータを下っていく様は、本当に車体から何かの液体が噴き出て伝い落ちているようにすら思えてくる。夜のホームには冷たい風が吹いている。あの流れに飲まれてしまえば、この素晴らしい夜風を浴びることもできないのだろう。

 私は人が嫌いである。友人や知人は「人」ではない。しっかりとした、「友人」「知人」というラベル付けがしてあるからである。「他人」もまた「人」ではない。他人とは、自分を起点としてある人との関係性を考えたときのみに生まれる概念である。そういう意味では、自分という限定された空間だけではあるものの、一種の繋がりがあるものと捉えることもできる。「あそこにいっぱい人が居るよ。」と言うことはあるだろうが、「あそこにいっぱい他人が居るよ。」とは言わないだろう。

 殆どの「人」が流れ切った後、私はエレベータを下り改札を出た。あれほどいた「人」は既に夜の街に消えていた。駅前には居酒屋やらその他の店がひしめき合っていた。煌々と灯っている店の明かりは、そこだけ夜の闇から切り離そうとする人間の意思すら、オレンジ色の光に湛えているようだった。きっとこの夜から逃げ、朝日が昇り次の一日が始まるまでの、ひと時の安息を求めて創り出した光なのだろう。月からは、この光がどのように見えているのだろうか。

 少し落ち着いた私は、自分がなぜ「人」嫌いになってしまったのか考えることにした。別段、他者とコミュニケーションをとること自体は嫌いではないし、苦手でもないと思っている。よくよく思いを巡らせてみると、私は「目的を異にする人間の群れ」が嫌いなのだという結論に至った。自分が本当にやりたいこと、進みたい方向、それらを悉く阻んでくるのが「人」である。更に悪いことに、彼らはいつだって自分勝手である。彼らには、自分たちが人間であるという自覚はないのだろうか。私が人の群れを、液体の流れであるように思ったのも、恐らく彼らが人間という意識を失っているからなのだろう。

 人間ではないなら、彼らは一体何なのだろう。そんなことを考えながら夜の街を歩く。家に帰れば、私は私を人間として認めてくれる家族がいる。少なくとも私自身は人間であるという自覚がある。しかしながら、もしかすると、誰かの目には、私は人間に映らないのかもしれない。人間に映らなくなってしまったら、その先のことを考えていたら、急に怖くなった。風が少しだけ強く吹いた。