ことばの海

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何故書くのか。

白い球体は地を這うようにこちらに向かってきた。それは小さな砂の粒を弾き飛ばし、不意に飛び上がった。体が無意識に反応し、身構える。刹那、左肩に衝撃が走る。痛みは感じない。今、この痛みは感じる必要のないものだからだ。私の体に当たったボールは地面に落下してなお、弱々しく回転している。右手でそれを掴み、無駄のない動きで勢いよく放る。青空が見えたが、私はその青空を感じることは出来なかった。今、その青空は感じる必要のないものだからだ。左肩の痛みが、忘れていたように訪れた。よくよく考えてみるとこの一瞬の光景も、後から思い返すことによって感じることのできたもののような気がする。人間は目に見えていたとしても、あるいは耳で聞いたとしても、それに向き合わなければそれらを感じることができないのではないだろうかと考える。何か一つのことにしか感覚というものは向けられないように思う。音楽を聴くとき、ヴォーカルの歌声に集中しているとベースの音色が耳に入ってこないというようなことである。よく通る道の見慣れた風景も、飲みなれた水が喉を流れる感覚も、全て意図して感じようとしなければ特に意味も持たず過ぎていく。私は高校まで野球というスポーツに打ち込んできた。思えば野球というスポーツの中にも数えきれないほどの映像、音、匂いやら諸々が存在する筈なのだ。しかしそれらを明確に捉えることができたのは、或いはこれを書き起こしている今のような気がする。沢山の物事が存在するこの世界で、沢山の物事を感じずに生きていくのは非常に勿体ないことだと思うのである。さて、小説とは複数の感覚が同時に表れる場所でもある。普段なら何気なく過ぎてしまうような感覚も、文字に起こすことで共感することができるようになる。言葉を読むことで過ぎ去った感覚に浸ることができるからだろうか。であるならば、小説を書くには今まで見過ごしていた感覚と向き合うことが必要になる筈だ。きっとその程度のことでも世界とは広がるものなのだ。ならば私は物書きをしよう。白球を捕らえたときの手の痺れも、用具小屋の錆と湿った黴の混ざった匂いも、こうやって文字にすることで全ての感覚が鮮明に思い出される。きっとこれからも小説を書こうとするならば、自分の感覚と真摯に向き合っていくことになる。それは殆どの人が忘れていることだが、同時にかけがえのないものでもある。書くこととは、書くこと自体以外にも目を向けることが大切だ。事実、この一年で私の見る景色は大きく変わったと実感している。そして常に違う景色を見たいからこそ、私は書き続けたい。今までの私はそうして形作られている。