ことばの海

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年末年始奮闘記 2

温泉旅館に来たのなら、まずは温泉に入るべきである。これは殆ど動かすことのできない道理だろう。何故なら、温泉が嫌いなら温泉旅館に来る必要が無いからである。突き詰めるならば、温泉に入りたいからこそ温泉旅館に宿泊するのだ、と言っても過言ではない。かくいう私は、温泉というものが嫌いである。いや、厳密に言うならば温泉旅館の温泉が嫌いだ。それは、自分ではない他人が存在するからに他ならない。何故好き好んで他人の裸体を拝まなければならないのだろうか。いや、真に嫌悪すべきなのはそこではない。見ず知らずの人が、同じ液体の中に一緒に浸かる。このことが私は耐えられなかった。

「じゃ、俺は先に行ってるよ。」

彼は手早く浴衣に着替えると、嬉しそうに部屋を出ていった。彼は温泉が好きなのだ。

独り部屋に取り残されたが、彼は決して私に冷たいわけではないと分かっていたから、寂しくはなかった。こういう時はひとりにした方がいいということを、彼は分かっているのだ。私もそうしてくれてありがたいと思っている。だが、そんな彼も私が温泉旅館が嫌いだということには気づけなかったようである。別に気づかないなら気づかないでいいのだ。

他人と付き合っている以上、どちらかが何かを我慢しなくてはいけない瞬間は必ず訪れる。普段は私のわがままを通してもらっている。これくらい我慢するのが当然なのだ。散々に言ってしまったが、温泉自体は嫌いではない。問題は温泉というものは得てして自分以外の他人が一緒に入浴するものであるという点に尽きる。潔癖という訳ではない。自分ではない誰かの身体など、今まで何に触れてきたか知る由もない。そんな得体の知れないものが、同じ湯に滲み出ているのだ。そんなもの、耐えられるはずがない。これを世間一般には潔癖というのだろうか。潔癖でなくても気になるものではないのだろうか。そんなことを考えながら、それでもせっかく来たのだからと大浴場へ向かい、そして結局後悔した。

 

夕食はありがちなバイキング形式だった。和洋中と様々な種類の料理が並べられ、その前には人々が群がっていた。

「人、多いね・・・」

まぁ旅館の規模からしてしょうがないよね、と彼は苦笑いする。まぁ仕方のないことなのだ。分かってはいるのだが、元来人混みが嫌いな自分にとっては不快感を煽るものに他ならない。コンセプトのバラバラな料理もなんとなく気に食わなかった。そういえば部屋も畳とカーペットの両方が敷いてあったっけ・・・そんなことを考えていると、不満だけが溜まってしまう。そんなのは嫌なのだ。嫌だから、とりあえずまだマシだと思う料理をできるだけ詰め込んだ。彼は「よく食べるね」と笑ってくれる。それがせめてもの救いだろう。

 

夕食後、彼はもう一度あの嫌悪すべき液体に浸かりに行ったようだった。私は特にすることもなく、読みかけの小説を黙々と読んでいた。部屋の中は妙に暑く、堪らず窓際に置かれた椅子に移動した。冬の冷たさが、窓越しに伝わってくるの感じながら、私は時間を忘れて読み耽った。

彼が戻ってくると、いつもの取り留めのない会話が始まった。正直、この時間は楽しい。もちろん不満が消えたわけではなかったが、何も気にすることなくこの時間を楽しめるという空間をもつことができただけでも、来た甲斐があったと思ってしまう。不意に、彼の背後に掛けられている写真に目が止まった。写真は物々しい額縁に入れられていたが、それが僅かに傾いているのが感じ取れた。今まで溜め込んでいた何かが溢れ出して、私は少し笑ってしまった。これか。きっとこういう事なのだ。自分が抱えている不満や不安などは、この僅かに傾いた額縁のように、殆どの人からは気づいてもらうことなどできないのだと。そして私も、誰かの不満や不安を、いくつも見過ごしながら生きているのだと。彼は嬉しそうな顔をして、私を見つめてくる。

「さて・・・」

彼はたっぷりと間をとった。

 

 

気がつくと年は明けていた。部屋の時計の針が、ぴったりと重なって、そして離れ始めていく。彼との話が終わったあとからずっと、私は小説を読み続けていた。相変わらず窓は冷気を放っている。それはカーテンを通り抜けて、直に私を刺してくる。

「次はもっと人がいないところにする・・・」

既に寝たものと思っていた彼が呟く。それが新年初めての彼の言葉だった。返事をしようと首を捻るが、既に彼は深い眠りについたようだった。小説はありきたりなハッピーエンドを迎え、結ばれた二人はこの先の困難も知らず、能天気に笑い合っていた。

ふと、喉の奥に鈍痛を感じた。近いうち、きっと私は病熱にうなされるだろう。

 

 

ー終ー

 

 

本年も宜しくお願い申し上げます。

                                                           漱之介。