ことばの海

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「目」 【弍】

整然と並んだ林檎を見つめながら、芳賀は思う。林檎に最初に「林檎」という名前を与えた者は誰なのだろうか。考えたからといって、答えが見つかる訳ではない。正直、どうでもいいことである。バイト先でこのような事を考えて居るとは、ほかの誰も思うまい。なんとなくぼうっとしている、芳賀は周りから見ればその程度の男である。いや、自分でもまさにその通りだと思う。自分の属性を決定するのは、遍く他人からの評価が全てであり、いくら自分を自分の中にひた隠しにしたとしてそれが他人の目に映らなければ、隠した自分は最早自分ではないのだ。小説などでは、表面の自分とは別の自分をもっている人間が出てくる。彼らの内面は、読者という他人がいることで成り立っている訳で、やはり自分というものを測ることは、他人にしかできない事なのだろう。

「またボーッとしてる」

気がつくと林さんが近くに立っていた。

「あ、すいません」

林さんは、「ま、いつもの事だからね」と微笑む。目尻の皺が年齢を感じさせる。それでいて、常に活力に満ちている。林さんはそういう人である。最近は子どもが反抗期に差し掛かったらしく、休憩中によくそんな話をするのだが、「ほんと嫌になっちゃうよねー」と言うその時の顔は、どこか嬉しそうに映る。自分がこのスーパーで働き始めたときから、林さんにはお世話になっている。まぁどちらにしろ仕事なのだから、新人の教育は大事なことなのだが、丁寧に仕事を教えてくれる先輩というものは概ね後輩から好かれるものである。林さんの目はいつも優しい。そう見えるだけなのかもしれないが、喩えるならそれは母親の眼差しといったところだろう。ということは、林さんには自分がまだまだ子供に見えているということではないか、と自分で自分に突っ込む。いや、むしろ自分の半分の時間しかこの世に存在していない人間など、まだまだ子供のようなものなのかもしれない。ということは、少なくともこの日本では、人口の半分以上の人たちが自分たちの世代を子供だと思っているということになる。子供だと思われているうちは、大人と対等に関わることは出来ない。対等に関わることが出来ないというのに、どうしたら若者達が日本を変えていけるというのだろうか。人工的な冷たい空気が、首筋を撫でる。十二月の自分には、青果売場は少し寒すぎるようだ。

バイト終わりは林さんと同じ時間だった。これから家に帰って夕飯を作るのだろうかと思っていたら、今日は旦那さんが用意して待っていてくれるのだそうだ。

「なんか張り切っちゃってね。それでいて洗い物するのは私なのにね。」

やはり林さんはどことなく嬉しそうに見える。それほどまで自分は今、幸せではないのだろうか。考えたこともなかった。考えたところで、幸せなのか不幸なのか分かるわけもなかった。芳賀はただ、ただ日々を生きているだけだ。何となく会話が続かなくて、林さんに試験のことを話してみた。私じゃ何もアドバイス出来ないなーと言った後、少し考える素振りを見せた。

「うーん、でも自分で選んだ道だからね、頑張るしかないよ。」

また、あの目だ。その目が、その目が気に食わない。

帰りがけに林檎をひとつ買って、店を出る。夜の静けさと肌を刺すような冬の吐息が、店のすぐ手前まで迫っていた。道に出ると、風は更に強くなり、そこらじゅうの建物と擦り合って音をかなでている。帰り道にある公園には恐竜の形をした遊具が置かれていた。前足の端を街頭に照らされ、つまらなそうに佇んでいる。白黒の世界で、ビニール袋から取り出した林檎だけが赤かった。恐竜は、林檎を見つけると、ひと声だけ、物悲しげに鳴いた。