ことばの海

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続・嫉妬しますよ、その文才。

優れた文章とは、私にとって絶望である。

 

最近の若者は読書をしないという。確かに、様々な娯楽が手軽に楽しめるようになった世の中、わざわざ何時間もかけて紙の束を一枚一枚丁寧に剥がし、そこに書かれた文字の羅列を延々と読んでいくという作業に、万人が熱中する筈もない。

本とは、頁岩のようだと思う。薄い頁岩を剥がすと、そこに太古の生物たちの息吹が感じられる。それと同じように、本の頁には何者かの生命力が宿っている。だからこそ、作者が既に死んでいたとしても、現代の人々に影響を与え続けるのだろう。差し詰め、熱心な読書家とは考古学者のようなものだろう。剥がした頁岩のどんな生物に注目し、そして何を感じ取るか、それは読み手に委ねられる。だから、様々な考察や持論が出てくるのだ。

 

実に愉快ではないか。

 

最近の若者は読書をしないという。

しかし、現代日本にも、太古の生物たちに取り憑かれた大馬鹿者達が、少なからず生きている。彼らは、傍目から見れば生きながら死んでいるようなものである。何が楽しくて人生を送っているのか、何を目標にして生きているのか甚だ疑問である。それもそのはずである。彼らは何もない頁岩に生命力を吹き込もうとしているのだ。自らの生命力を、余すところなく注ぎ込んでいるのだ。

彼らは決して生き生きとはしていない。その分、彼らの文章には生命力がある。見るものに衝撃を与えるような、とんでもない生命力である。果たしてこれが同世代だろうか。私は常々思う。彼らは何も語らず、ほとんど動きもしない。しかし、文章が私を押し潰す。何が優れた文章であるか、そんなことは私にはよく分かっていないのかもしれない。一つ言えることは、この瞬間において、私は彼らの文章の生命力に押し潰され、更には私の命さえ否定されている。それも同世代に、あまつさえ歳下にである。私だけが見ている悪い夢だろうか。

恐らくは、そうなのだろう。私も、大馬鹿者の一人ということだろう。いや、悪いことに大馬鹿者になりきれない、中途半端な人間だ。そんな者が見る夢など、大した夢ではない。

 

優れた文章とは、私にとって絶望である。