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ことばの海

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百鬼夜行#3【序】

「匂い?」

村山は頬張ろうとした焼き鳥の串の動きを止めた。村山は会社の先輩にあたる。アルコールには強くないくせに、上司に小言を言われた日は決まって呑みに誘ってくる。彼が小言を言われない日はまずないから、断りでもしない限り僕に休肝日は訪れない。

「ほら、川って特有の匂いがするじゃないすか。」

どうやら今日は、担当している記事に文句をつけられたようだ。村山は確かにセンスがない。明確な改善点を示さず「なんとかならないのかね」とばかり言い続けている編集長もそれはそれで芸がないというか、部下を育てるのが下手という気がするが、村山に至っては本人が悪いというのが僕を含む同僚たちの見解だ。なんとかならないものか…って、どうにもならないだろうに。センスがないのだから。

「ドブ川みたいな嫌な感じの匂いか?」

「そうじゃなくて、僕の地元とかのまぁまぁ綺麗な川だってするんですよねぇ。わかんないっすかねぇ。」

ジョッキからビールを飲み干した村山は、どうやらピンときていないようだ。一応先輩にあたるのだから、村山さんとか村山先輩とか呼ぶのが当たり前なのだ。無論会話の中ではそうしているのだが、それにしても村山はいつまでたっても村山のままだ。

一昨日、関東地方は猛烈な豪雨に襲われた。各地で川が氾濫し、その光景はテレビで何度も映された。だからその話題についてあれこれ言っていた筈なのだが、一杯目のビールが運ばれてくる頃から既に話は脱線気味だ。まぁ、呑みの席の雑談なんてそんなものなのだろうと思う。

「わからんなぁ。そんな綺麗な川は匂いなんてしないだろ。川って言ったって、要は水だろ。水。俺の実家は割と田舎の方にあるんだけどな、そこの川は澄んでいて、匂いなんてしないぞ。」

恐らくあれは生活臭なのだ、と栗田鉄平は思う。空気中にだって微生物は居る。だったら、命の源と言われている水の、ましてや有機物やらなにやらをたっぷり含んだ川の水には、途方もないほどの生き物が生活しているに違いない。というか、実際に居る。生きているのだから、呼吸するし、物も食う。呼吸すれば穢れた空気を吐き出すし、物を食えば排泄もする。それらが混じり合って、川は形成されているのだ。匂って当然だ、と栗田は思っている。別に嫌いな匂いではない、言うまでもなく好きな匂いではないが。何というか、不快というか、不安を煽るというか、それでいて得体の知れない温かみのある匂いだ。逆に言えば、その匂いがするほど無数の命が川の中に蔓延っているということでもある。

「村山さん、それは都会の川に慣れちゃってるからっすね。都会の川の匂いがあまりにきついから、匂わないように感じてるだけっすよ。染まっちゃいましたねぇ、都会に。」

何だよそれ、地元に住んでる友達みてぇなこと言いやがって…と村山は枝豆を噛み潰しながら呟いている。

都会の川の匂いは、生活臭ではない。あれは余分なものが多すぎる、と栗田は思う。命ではない何か。それが含まれすぎているのだ。より命の匂いを感じ取ることができるのは、やはり田舎の川なのだ。あの川の中に足を入れる時、流れに沿って無数の命が肌の表面を駆け巡っているのだ。もしかしたら、毛穴から身体の内側まで侵食されているかも知れない。自分ではない他の命に自分を侵食される。これほど気持ちの悪い事はない。自分の中に入って来た命は一体何をしているのだろう、と彼は考えた。別段明確に目的など無いのだろう。それでも、他人を侵食するのが愉しいかのように、無数の命たちはやって来る。本当に侵食されているかどうかは判然としていないが。これは何も川だけに起こる事ではない。人間社会だってそういうものなのだ。ほとんど関係のない、名もない命が、常に誰かを侵食しようと狙っている。それが行き過ぎれば、削られ、削ぎ落とされ、そして死が訪れる。無数の命の中で、ひとつひとつ命が消えていくのは、川も人間社会も同じようなものだ。まぁ、だからなんだという話なのだが。

あぁ…

不意に村山が声をあげた。

「実家の近くの川にはな、河童が出るって噂があったんだ。どうだ、すげぇだろう。」

「河童…ですか?」

河童というとあの、胡瓜を食ったり相撲をとったりするあの河童だろうか。

「胡瓜食ったり相撲とったりする河童とは違うぜ。俺のところの河童はな、川に入った奴の脚を引っ張ってな、溺れさせちまうのさ。」

村山は酔いが回ってきた、と栗田は推理した。いつものことなので、凡そこの推理は当たるだろう。某少年探偵のようなセリフを使えば、真実はいつも一つ、それは村山が酔っている、という事だ。奴が家路につけなくなる前に、早いとこお開きにしておこう。

 

久しぶりの帰省である。栗田は今、橋の上から川の流れを見つめていた。環境が変わったからか寝付けずに、ふらふらと散歩をしていた。午前二時。川は墨汁を流したかのような真っ黒い色をしていて、心細い街灯に照らされてぬらぬらと不気味に光っている。見えないが、居る。そこには無数の命が流れている。

不意にガサッと音がした。

ー河童か…

村山の言葉に影響されるとは予想外だったが、川沿いの草叢から音がした時、反射的にそう思ってしまったのだから仕方がない。

俺を…引き摺り込もうとしているのだろうか…

引き摺り込まれたらどうなるのだろうか。まぁまず間違いなく死ぬだろう。川の水に溺れながら…無数の命が、身体中の毛穴という毛穴から侵食し、肉を貪り、血を啜る。口からだって、目からだって入ってくるだろう。そんな事を想像するのは、少し気持ち悪い。或いは、人は河童のような存在に出会う事によって、死んでいくのかも知れない。河童に出会う事で、否が応でも命たちの中に引き摺り込まれる。後は、その命たちが、自分の身体を侵食していくのをじっと、ただじっと、ひたすら待ち続けるだけの日々が訪れる。そしてその時は人生の中で、意外と早く訪れる。河童に出会うのは、子供の頃と相場が決まっているのだ。

でももし、本当にそうだったとしたら。そんな風に死んでいくのだとしたら。それは…

 

厭だな…

 

と栗田鉄平は思った。

 

 

 

ー河童ー