百鬼夜行#2〜時代が生んだ怪鳥〜
第2回は「以津真天」(いつまで)についてご紹介します。
以津真天が最初に登場するのは「太平記」の中の記述です。1334年、疫病が流行し、死者が多くでた頃に、巨大な怪鳥が現れます。その怪鳥は「いつまでも、いつまでも」と鳴き続け(そんなわけあるかいな)人々を恐れさせたのです。のちに怪鳥は退治されますが、そのころは特に固有の名前は与えられていませんでした。顔つきは人間のようだった、との記述もあるとのこと。
"以津真天"という言葉が用いられたのは、江戸時代。鳥山石燕という画家が、太平記をもとに百鬼夜行図を製作した際、その特異な鳴き声にちなんで名付けられたと言います。石燕さんは物好きですね。そんな石燕さんの絵、僕は大好きなんですけどね。
昭和以降の妖怪関連の文献には「戦乱や飢餓などで死んだ死体を放っておくと、その近くに現れる」とされ「いつまで放っておくのか」との意で「いつまで、いつまで」と鳴くという性質が追加されています。また、正体は亡くなった人の怨念であるという解説もあります。ここでは主に、この昭和以降に追加された属性についてを主体として話を展開していきたいと思っています。
すべての怪異は意味があって成り立ちます。
それはこの怨念怪鳥くんも例外ではなく、こやつが成り立つための条件がいくつか存在すると思うのです。
1「死者の魂」という概念が存在する
2戦乱や飢餓などで、度々多くの人が死ぬ
3死者を葬るシステムが完全に行き届いていない
とまぁ、ざっくりいえばこの3つになるでしょうか。今でも死者の霊魂という考えかたはありますが、2、3の条件は現代日本においてはほぼ成り立たないと言っていいでしょう。すなわち、以津真天は前述の条件を全て満たせるような時代にしか存在することができないということになるのです。この妖怪に昭和以降に付与された属性がある限り、都会のビル群の上を悠々と飛ぶことも、誰もいない森の木の枝に佇むこともできないのです。これは時代の特色が色濃く反映された妖怪だったのです。当時の人々が、戦乱や飢餓に見舞われ、それを供養する場もなく、そしてなにより人間の魂というのも大切にしながら生活していたという事実が、以津真天には宿っているのです。(実際は昭和以降に付与された説明なので、その時代がそういうものだと考えられていた、という方が正しい)
このように、荒唐無稽な作り物と思われがちな妖怪という存在も、実は様々なものに縛られながら生きているのです。そして今回の以津真天は、人々の生活や風習、特に「時代」との関連性に強く影響されて生まれた、そんな妖怪だったのです。
読んでくださいましてありがとうございます。
よろしければ、また次回。