ことばの海

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東京

人壁、そこに無理矢理ギターケースを滑り込ませる。かなり強引に押し込んだ。邪魔なのは分かっている。視線が、舌打ちが、ギターケースと、それを持つ私に向けられていることも分かっている。

しかし、それを跳ね除ける強かさと、最大限周りに配慮する謙虚さが無ければ、私は家路につくことが出来ない。

土曜日、22時を回った中央線は人で溢れかえっている。人々の熱気と、車内の冷房が綯交ぜになった不快な空気。背後からきつい香水の匂いがするが、首を回して確認することもできない。

窓の外を流れているはずの街並みは全く見えず、眼前には水色のワイシャツが立ちはだかっている。

上京して3年目。「東京の人は冷たい」という聞き飽きた常套句。住んでみても、別段冷たい人が多いとも感じたことはないし、むしろこの2年は、「出会い」という面において、かなり恵まれた期間だったとさえ思う。

話していて楽しい、一緒にどこかに遊びに行けるのが楽しい、悩みなんかを相談できる・・・

友人と知り合いのボーダーラインは人によって様々だが、大方このあたりをクリアしていれば友人として認識できるのではないだろうか。

そう考えると、より深い場所まで付き合える友人というのは、ここ最近で増えたように感じる。

ほろ酔いで火照った耳に、イヤホンの音漏れがシャカシャカと響いた。

友人ができたということ、それはごく普通の事なのかもしれない。というか、小学生や中学生までは、友人ができない方がおかしいのだと思っていた。

学校の先生からは、一人でいる子は積極的にみんなの輪に入れるように言われた。私は、その子が本当に一人を望んでいるのだったらどうするのだろうと、つくづく思っていた。

周りには同年代の子どもがたくさんいる。騒がしい子も、大人しい子も居るし、外で遊ぶことが好きな子も、本を読むのが好きな子も居る。

コミュニケーションなんて取ろうと思えばいくらでも取れるのだから、こっちから仲間の輪に入れなくてもいいのだと思っていた。

私は今まで、別段嫌いな人も居かなったし、話しにくい人も居なかった。

話すことがあれば話しかける。話しかけれられれば、すんなりと会話し、楽しければ笑った。誘われれば遊ぶし、避けられているなら空気を察した。

全員に平等とはいかないまでも、贔屓とか差別とか、そんなことはした記憶が無い。

だから、友達なんて、すんなりできるものとばかり思っていた。

 

電車が最寄りの駅に着く。開いたドアから、初夏にしては少し蒸し暑い風が入ってきた。ホームから階段を駆け下りて、改札を出る。深夜といえど、土曜日の夜だからなのか、駅付近にはかなりの数の人が蠢いていた。

ふと思った。コミュニティに入れられていたから、友達が出来ていたのではないかと。少なくとも高校までは、学校や部活といった、比較的狭いコミュニティの中に押し込まれて生活していた。だから、関わる人は最小限、ただしその関わりは濃密だった。

人間は、生きている限り少なくとも1つ以上のコミュニティに属している。現実世界でもネットでも、必ずコミュニティには属しているはずだ。ということは、高校生まではそのコミュニティの数が少ないか、あるいはコミュニティに属することが半ば強制的であったのではないだろうか。

大学生になって、自分に合う友人が増えたのは、自ら属するコミュニティを選択できるようになったからではないだろうか。

逆に、友達ができにくくなったのは、コミュニティの選択肢が増えたからではないだろうか。商売の世界でも、選択肢が多い商品は売れないというらしい。であるならば、私は自由に選択できるがために枷をはめられたということになる。

駅から少し離れてきた。人影はまばらになり、小さな川の流れる音ばかりが聞こえる。私は、人の多い場所よりこっちの方が性に合っている。

そういえば・・・

私は他人と平等に接するのは無理だとずっと思っていたのだった。小学生の頃、定期的に行われていた訳の分からないアンケートにも、「あなたはクラスのみんなに平等に接していますか」という質問には、全て「いいえ」と答えていたのだった。

性格はどこまでいっても変わらない。私の人間関係はほかの誰のせいでもなく、自分が作り上げたものに他ならない。

 

 

 

継・嫉妬しますよ、その文才。

嫉妬とは醜い感情である。

しかしながら、嫉妬とは時に凄まじい力を持つ。私がこうして言葉を紡いでいるのも、単にその嫉妬のおかげである。

かといって、この言葉を紡ぐ行為自体が素晴らしいものかと言えば、それは甚だ疑問である。

要するに自己満である。

しかし、人間は自己を満足させるために努力をするのであって、自己満が一概に悪いとは言えない。

さて、予てから私の嫉妬の対象は素晴らしい文章である。

人間は言葉を使って物事を考えるという。数字にしても図形にしても、考えるという行為には言葉は必須のツールである。

「人間は考える葦である」という言葉に倣えば、人間の本質とは考えることである。

人間の本質が考えることであるならば、必須のツールである言葉を上手く扱える者の方が、人間としての完成度が高いということである。

少々乱暴な結論だが、私の嫉妬の理由を説明するのにはぴったりである。

言葉の優劣をそのまま人間の優劣だと、私は心のどこかでそう思ってしまっているのではないだろうか。

 

最近、自分が素晴らしいと思う文章ではなくとも、自分が好意を寄せる人物が素晴らしいと評した文章に対して激しい嫉妬を覚えるようになってしまった。

自分の方を認めてほしいと、そう思っている醜い嫉妬である。

それがあるから、言葉におこそうとする気が湧いてくる。それは事実。それは事実なのだが、なんとなく虚しいものである。

 

それでも、私は言葉から逃げられないのである。

プレゼント

十二月に入ると、途端に街は騒がしくなる。絶えず流れるクリスマスソング。一層大きくなる客引きの声。駅前にはイルミネーションが設置され、様々な色の電球が煌びやかに輝いている。
 久しぶりに訪れた新宿は、冬とはいえやっぱり嫌な臭いが漂っていた。人混みが苦手な私は、普段目的もなく街中に出かけることはない。今日も、友人に誘われなければ、何もせず家に籠っていたことだろう。それほどまで億劫な外出だが、別段断る理由もないし、何だかんだ言ってたまに街中に繰り出すのも悪くないと思ったのもあって、寝不足の顔もそのままに友人に付いていったのである。
 彼女への誕生日プレゼントを買うのだという彼は、黒いロングコートにグレーのストールを巻いており、落ち着いていながらも若々しく見える。彼の端正な顔立ちもその雰囲気を作るのに一役買っているだろう。不意に出てきたあくびを噛み殺す。
「なあ、誕生日とクリスマスのプレゼント、一緒にせんのか」
 対して私は、ダボついた厚手のパーカーといういで立ちである。少し大きめのサイズを好む私は、傍から見ればファッションに興味がないように見えるだろう。だが、私は私なりのこだわりをもっているのだ。
「それやると、あっちが怒るから」                
 彼は少し楽しそうにそう答えた。恋人ができると金を使うようになるというが、なるほどこういう事かと、今更ながらに思った。私みたいな感覚で生きている者がいるから、世の中の女性の憂いは消えないのだろう。
 人混みをかき分け、次々に商品を吟味していく彼に辟易しつつ、私は後を追う。「アドバイスをくれ」と言っておきながら、自分でプレゼントを探すことに熱中しているようで、少し目をはなすとすぐに何処かに消えてしまうのだった。その度、他の客に肩を擦りながら歩き回って彼を探すのだが、とうの彼は「これどう思う」と、私とはぐれたことさえも気づいていないようである。
 三時間くらい経っただろうか、ワインレッドのバッグを抱えた店員の後に、彼が続いた。代金を払い終え、安堵した表情を浮かべる彼を見て、彼にはここまで真剣になれるような人が居るのだなぁと、改めて思った。
 別に羨ましくはない、別に妬ましくもない。ただ、少しだけ寂しくなった。      

列だ。長い長い列だ。十一月も半ばを過ぎ、静かな冬の空気が漸く東京にも訪れた。地元の片田舎なら、とっくのとうに一面霜が降りている時期である。その煤竹色の田畑が広がる風景と、一年中ネオンが光り輝く都会との違いに、眩暈さえ覚えるようである。
とは言ったものの、冬は確実に街を侵食していて、裸になった街路樹がその事実を教えてくれる。冷たい風に乗って、アコースティックギターの音色が響いてくる。
列は、寒さに震えるかのように、小刻みに振動していた。並ぶ人たちの息遣いや、小さな囁き声が共鳴しあい、あたかもお経のようにつらつらと流れている。
基本的に、私は都会が嫌いな人間である。汗やら香水やら煙草やらの臭いにまみれた人混みを歩くのも嫌いだし、都会特有の騒々しさも苦手だった。都会にはろくなものがない。人工的な光で彩られて、ふんぞり返るように立ち並んでいる建物たちには、微塵も温かみが感じられない。これならば、明かり一つない田舎の夜の方が幾分か優しさを感じられるというものである。だから普段私は、新宿や渋谷なんかの都会中の都会には、極力出かけないようにしている。
ただ、列だけは別物である。私はそれを美しいとさえ思う。列に並んでいる人々は各々に思うところがある筈だ。楽しそうにお喋りする親子や、ヘッドフォンをしてあらぬ方向を見つめている若者や、苛ついたような表情で、列の先頭をしきりに確認する中年のスーツ姿たちが、一つの目的のために束ねられている。その光景を美しいと言わずして、なにを美しいと言おうか。彼らは、列の先にある目的と、一握りのモラルに雁字搦めにされて、一定時間ごとに僅かに前進するという茫漠たる時間を、その一筋の中で消費している。その規則正しさは、もはや芸術の域である。
その列を冷ややかに横目で見ながら、私は足を速める。列は鑑賞するからこそいいものである。自らあんな退屈で無駄な時間を食い潰すだけの存在に身を投じるなんてことは、愚の骨頂とさえ思う。
改札を過ぎ、ホームへの階段を登りきると、また新たな列が見えてきた。
黒いコートが無数に出たり入ったりする光景は、やはり美しさを内包している。彼らは、すれ違いざまに小さな摩擦を生じ、それは各々の心に溜まった澱に火を点ける。だから、常に彼らの表情は険しい。しかしながら、それをあざ笑うかのように、列の動きはこの上なく滑らかだ。列に宿る見えない力が、一人また一人と心の火をもみ消していく。全く美しく、それでいて滑稽だ。
私は、列の最後尾に付き、イヤホンを耳に詰めた。      

左耳

その日の目覚めは最悪だった。目覚ましの音を鼓膜が拾ったが、なぜか左耳だけが外界から隔離されていた。何年振りかに味わうこの感覚。一握りの懐かしさと、途方もない煩わしさが左耳の異常事態を告げた。
 中耳炎。もしくは外耳炎。この病気に何度となくお世話になっている私は、感覚でおおよその見切りをつけた。耳鼻科を受診するのが最も手っ取り早い。
 スマホの画面を開き、近くの耳鼻科医院を検索する。東京に引っ越してからというもの、一度として病院にお世話になったことはなかった。思ったよりも、近くには多くの医院があるようで、患者を食い合わないのかと不安になるほど近くにアイコンが表示されていた。しかし、それよりも私の気を引いたのは、「本日休業」という赤い文字だった。
 「うあー。今日、祝日じゃんかー」
 イライラがピークに達し、思わず声を上げる。その声も左耳の栓を突き破ることはできず、ただ頭蓋の中に反響して消えていった。単純な祝日なら、一日安静にしていればいいが、無情にも大学には講義が存在していた。世間と合わせて休めば、職員も教授も幸せだろうと思うのだが、大学側にも大人の事情があるだろうし、大学という組織に自ら望んで入っている以上、文句は言えないのかもしれない。
 私は再び布団に潜り込んだ。この系統の病気の場合、発熱することがあり、そうでなくてもそもそもの原因が鼻風邪によるものであるから、体調は悪くて当然なのだ。小学生以来とも思われる感覚に触発され、徐々に記憶が蘇ってきた。かかりつけの耳鼻科医院の場所、緑色の合成皮革シートに覆われたソファ、鼻洗浄の時の何ともいえない感覚と、薬品を混ぜた蒸気の匂い、その全てが脳裏を駆け巡って、そのまま私の意識は混濁していった。

 強烈な空腹によって私が目を覚ますと、時計の針は既にてっぺんを回っていた。午前中の講義を全て犠牲にした睡眠でも、私の体調は一向に良くならなかった。なんといっても、左耳の不快感は筆舌に尽くしがたいものがあり、それだけで半年分のストレスに匹敵する気さえした。取り敢えずシャワーを浴びて着替えはしたものの、気分は全く晴れず、空腹を満たすためだけにバナナを二本食った。
 幸い家は大学に近いので、三限には間に合うはずである。ドアを開けると燦燦と輝く太陽が私を迎える。しばらく雨続きで、あれほどまでに太陽を望んでいたのに、今となっては嫌悪の対象でしかなかった。お気に入りの音楽を聴けば、少しは気が紛れるだろうと思い、耳にイヤホンを突っ込んだが、案の定、それも不快感を煽るものでしかなかった。この世からストレスなんて消えればいいのに、とふと思った。               

「目」【終】

悴んだ指が、家の鍵を何度か遊ばせる。ドアノブに手を掛けると、冬が来たことを告げる音がした。

「ちっ。」

芳賀はイラついていた。鍵をうまく開けられなかったことでも、静電気を受けたことでもない。課題があるという現実に目を向けたからである。小さな苛立ちが、悴んだ手や静電気のせいで何倍にも膨れ上がり、彼に乱暴にカバンを放り投げさせるに至った。明日までに終わるのだろうか、それだけの不安でも、ひとりの人間を追い込むには十分なのだと彼は思った。

誰かに救いを求めなければ。深夜にひとりだけで課題に取り組むというのは、思ったよりも孤独なものなのである。都会では普段、自分が望む以上の人間と、ほぼ強制的に関わらなければならない。それでいて、安アパートのワンルームに帰ってくれば、その関わりの中から放り出されたような気さえする程の孤独が襲ってくる。

カバンから転がり落ちた林檎をじっと見つめながら、芳賀は自分の頭が空っぽになっていくのを感じた。このまま時間さえ止まってしまいそうだったが、吐く息が白いということに気づいてエアコンをつけた。ついでに電気コタツのコンセントを入れて、そこに潜り込んだ。外界の冷たさから隔絶された自分の部屋は、芳賀の孤独感を一層強くさせた。その孤独感に苛まれつつ、だらだらと温みを貪っていたら、いつの間にか時計の針がてっぺんを越えていた。

コタツとは一人暮らしの部屋には絶対に置いてはいけない家具なのだ、と芳賀は思う。この家具は、律してくれる他人が居てこそまっとうな使い方ができるのであって、その存在が無ければただ単に怠惰な人間を作り出すものでしかない。肩までどっぷりと人工的な温もりに浸ってしまえば、身体は言うことをきかなくなる。手の届く範囲、目に見えるものだけが世界の全てになる。そしてトイレに行くことでさえ、平安時代の航海のように非常に大義なものになるのである。そう考えると、やはりコタツなど捨ててしまった方がいいに越したことはないのだが、その暖かさの虜となってしまった今、最早そんなことは実行できようがないのである。

そろそろ「目」についての課題に取り掛からねば、という焦りが芳賀にパソコンの電源をつけさせた。真っ白な画面に、何を書けばよいのか。この期に及んで全く考えが纏まっていない自分に腹を立ててみても、ただ無為に時間を使うだけである。

その時、スマートフォンの通知音が鳴った。

『起きてる?』

咲樹からだった。咲樹とは大学に入ってすぐに付き合いだした。先月、五か月記念といって旅行に行ったばかりで、何となく文系の大学生らしいことをしている自分に、何となく満足できている。

自己満足というのは大切で、自己に対して一点でも満足感があれば、人間は意外と折れずに生きて行けるものなのだと思う。例えそれが、周りから見れば不快で非常識だったとしても、人間はそうしていかなければ生きてはいけない。 だから、いくらそういう人間に目くじらを立ててみたところで、同じような奴らはあとからあとから沸いてくる。

『起きてるよ』

結局のところ、人々はそういう奴らを叩いて、少しの優越感と他者との一体感を味わえればいいのである。そういう意味では、こいつは役に立っているのだな、とスマートフォンを握りしめる。

そういえば、咲樹も同じ講義をとっていたのだった。彼女に聞けば、或いは何かしらのアドバイスをもらえるかもしれない、と芳賀は思い至った。

『ちょっと電話できないかな』

意外にも、彼女の方からお誘いがあった。こういうふうに、突然連絡を取りたがってくるところが、咲樹の可愛らしいところでもある。毎日大学で顔を合わせているというのに、全く困った彼女である。

電話をかけると、ワンコールも終わらないうちに咲樹の声に切り替わった。

「ごめんね、こんな夜遅くに」

「大丈夫だよ。今ちょうど課題をやっているところだから」

言ってから後悔した。大概こういう時、咲樹は気を遣って電話を切ろうとする。こちらも合意のもとに電話をしているわけだから、そんな気遣いは無用なのだが、それも彼女の性分なので仕方あるまい。

「そっか、邪魔しちゃったかな。でも話したいことがあるんだ」

いつもとは少し様子が違うということに、芳賀はすぐ気が付いた。

「俺も聞きたいことがあるんだよ。課題のことでさ…」

「あ、その前に私の話から聞いてもらっていいかな」

普段は控えめな彼女が、ここまで強引に自分の話を通してくることがあっただろうか。芳賀は課題を進めたいという思いに苛立ちはじめていた。

「そんなに大事な話なのか?」

回りくどいのはやめて欲しい。いつも咲樹はそういう話し方をする。あまり好ましいものではないな、と思いつつも、いつも我慢していた。

「大事だよ。とても大事」

「で、何の話なの」

自分の苛々が増幅していくことを、芳賀はひしひしと感じていた。どんな話なのかは知らないが、いい加減にしてくれないだろうか。

「あのさ、こう、何て言うか」

「なんだよ」

暫しの沈黙が流れた。咲樹の息遣いだけがスピーカー越しに伝わってくる。

「私たち、別れた方がいいと思う」

突然すぎた。その言葉は芳賀にとってはまさに寝耳に水であった。何しろ、彼にとってはこの交際は順調に進んでいるものにしか思えなかったからである。

「は?」

芳賀は、この言葉を絞り出すことで精一杯だった。現実に思考が追いつかず、様々な考えが複雑に絡まった結果、苦し紛れに出てきたのがこの言葉だった。

「芳賀くんはね、私のこと見てくれてないんだよ」

「いやいや、何を言って・・・」

見ていない。見ていないとはどういうことか。

「芳賀くんはね、いつも私に理想の彼女を重ねて見てるの。素の私じゃなくて、芳賀くんが思う完璧な彼女のことしか見てない。芳賀くんが私に不満をもっていることなんて、こっちから見ればすぐ分かるの」

「いや、そんなことないよ」

咲樹は大きく息を吸い込んで、一気に話し出した。

「ううん。絶対に不満をもってる。でも芳賀くんは絶対に言わない。それがどれだけ嫌なことか分かる?芳賀くんは、自分の気に食わないところを言うわけでもなく、ただ自然に良くならないかなって待ってるだけ。それじゃ何も変わらないよ。それに、何も言ってくれないっていうことは、それだけ私を信用してないっていうことだよね」

「ちょっと待てよ。そこまで分かってるなら自分から変わればいいじゃないか。俺は咲樹に文句なんて言いたくないから言わなかったんだ。それは分かるだろ?」

咲樹は「分かる、分かるよ」と言ったあと、一呼吸おいた。

「だって、今までの人もそうだったから」

何が悪い?彼女に気を遣うことの、一体何がいけないと言うのだろう。

「私はね、芳賀くん。素のままのお互いを受け入れられるような、そういう恋愛がしたいの。どちらか一方が、どちらかの為に自分を変える。その時点で、愛には格差が生まれているのよ。恋愛は二人でしていくものなのに、なんでそこに格差が生まれなきゃいけないの?私はそれが嫌なの。そうじゃなくても愛し合える人と一緒に居たいの」

「現実的に考えてそれは無理だ。恋愛にはお互い妥協が必要じゃないか?ある時は目をつぶり、ある時は指摘したりして、そうやってバランスを取りつつなんとか上手くやっていく。そういうのが必要なんだ」

「夢をさ」

咲樹の声が震える。それは怒りによるものではないことは、芳賀にも十分に伝わった。

「夢を追いかけたって罰は当たらないよね?私、最初に言ったよね。お互いを素のままで受け入れられたらいいなって。芳賀くんは、素のままの私を見ていない。私の夢だって一緒に見てくれない。そんな夢叶うはずないって、すぐに捨ててるの。そんな人と一緒には居られない。私も、私の夢も愛してくれない人を、どうして私が愛さなくちゃいけないの?」

芳賀はその雰囲気に気圧された。頭の中はぐちゃぐちゃと様々な感情が入り混じり、もう後にも先にもいけない状態だった。

「分かった。もういい。俺は寝る」

芳賀は電話を切ると、そのままの勢いでベッドに飛び込んだ。視界の端には、真っ赤な林檎が転がっている。

目をつぶると、じわじわと睡魔が襲ってきた。両の目を閉じてみて、初めてそこに目があったことを実感する。自分には何も見えていなかったのだろうか。こんな疲れきった目を開いていては、見るべきものが見えずに後悔することになるのだろうか。あぁそういえば、夢は目を閉じなきゃ見えないものだったっけ。というか、まだ課題が終わっていないじゃないか。いや、もう遅い。全てが遅すぎたんだ。何も見えない。もう、何も見えないんだ。

 

午前零時四十八分、芳賀俊介は深い眠りについた。

 

暑い日

暑い。垂れ落ちた汗が、瞬く間にアスファルトに吸い込まれていく。自分の身体ですら、地面に溶けて消えてしまいそうなほどの灼熱だ。大げさなのは分かっている。だが、この湿度を伴う不快な暑さに対抗するには、多少頭がおかしくなるくらいでなければならないのだ。

「なぁ、何で夏ってこんなに暑いんだ」

 私は何の気なしに友人に聞いた。駅から自宅までの道のりが長い。この暑さの中では、その道中が終わらない地獄のように思えてくる。心なしか、距離が伸びているのではないかとさえ思うほどだ。

「夏だからでしょ。寒かったら、それは冬になっちゃうじゃん」

 蝉の声が、夏の暑さに痛めつけられている私たちを煽っているかのようで、正直腹立たしい。電車内の過剰な冷房にさらされた身体は、蒸し暑い外気に対しての耐性を全くと言っていいほど失っていた。玉のような汗が、首筋から腹まで伝い落ちてきて、この上なく不快だ。

「なるほどな。夏だから暑いというわけではなく、暑いから夏だ、という構造だな」

 歩いて帰るのではなく、バスを使えば良かったと後悔した。もう道中の半分ほどまで来ていたから、このまま歩いていくのが妥当だろう。こんなに暑いというのに、笑いながら走り回る子どもには、尊敬の念を抱く。昔は自分もそうだったのかと思うと、少し信じられない。

「そうだな。俺たちは暑くなってきたと感じるから、夏がやって来たと思うわけだからな。季節が先にあるのではなくて、感覚が先にある、っていう感じかな」

 時折、「七月で暑いなんて言っていたら、八月はどうするのだ」というような言葉を耳にするが、暑いものは暑い。八月はもっと暑い、それだけである。冬ならば「二月はもっと寒い」ということになろう。四季がはっきりしているというのは、良いことも悪いこともある。日本人はよく、暑いのと寒いのではどちらがより耐えられるか、というような話をする。これもはっきりした四季があるからこその文化だろう。

「分かった。現在私たちが冬と呼んでいる季節を、夏と呼ぶことにすればいい。そうすれば、寒くなってきたら夏が来た、と感じるようになるわけだから、夏が暑くなくなるぞ」

「ああ、そうだな」

 友人は、私を少しだけ哀れむような目つきで見て、さっさと歩きだした。こんな暑さに対抗するには、多少頭がおかしくなるくらいでなければならないのだ。