ことばの海

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出会い。

人と人とが繋がる瞬間というものは、例外なく美しいものである。大学生になった私は今までの人生とは比べ物にならない程の、「出会い」を見てきた。野球場の見える公園で、今日もまた、私は人の出会いを見ることになる。

 学生とは基本的に群れるものなのだろうか。世間が言う「青春」とは、常にある集団の中で生まれるもののように感じてしまう。学校、部活、友人たち、それらの人と人との関わり合いの中でしか、青春という言葉は生まれないような気がしてしまう。確かに、冷静に考えればそれは真理なのかもしれない。私の目の前で缶ビールを片手に語り合う彼らだってそうなのかもしれない。

 人間は他人と関わることでしか自分を証明できない。同じように、他人と関わることでしか、他人を認識することもできない。故に人は自分の名前を名乗り、自分が存在しているという安心感をもつ。そして他人の名前を聞き、素性を知ることで他人の虚像を作り上げる。その行為が最も活発なのが、青春という時期なのではないだろうか、と思う。

 斜陽が公園の石段を強く照らす。聞きなれない女の子の声がした。多分、私が初めて会う人間なのだろう。酔い始めた先輩たちの声が大きくなる。出会うことが幸せと感じるならば、きっと人生は楽しいものとなるだろう。しかし私は、歳を重ねるごとに、人との出会いが他人と繋がるということに直結しなくなってくるのではないかと思うのだ。他人に深入りしない方が、余計に人間関係を抱え込まない方が、苦しい思いも、痛みも感じずに生きて行ける。そう気づいてしまった人々は、青春を捨てる。若い時に積み上げてきたものの結晶であったり、恥であったりが人間をそのように変えていくのだろう。時々、それに当てはまらない人も存在する。それは青春いう皮をかぶったものが殆どで、極々稀に本物の青春を送っている人間もいるが、それはまだ、人間的に未熟なのだと言わざるを得ない。

 最近、私は他人の名前を覚えることが苦手になった。それは単に新たな出会いの数が、私の脳の処理能力を超えただけなのか、或いは無意識のうちに、これ以上他人と深く関わるのを避けようとしているのか。非常に興味深いと思うのである。

 辺りは既に暗闇が支配し、それと反比例するように周りの人間の騒がしさが増してくる。目の悪い私は、ぐっと細めた目で、公園の時計を見た。まだこんな時間か、と思った。私の青春はいつ終わりを迎えるのだろうか。隣に座っていた先輩が、小さく愚痴をこぼした。どうやら、缶ビールの気が、完全に抜けてしまったらしい。           

「人」嫌い

電車から流れ出でくる無数の人々を見送りながら、私は立っていた。それらがエレベータを下っていく様は、本当に車体から何かの液体が噴き出て伝い落ちているようにすら思えてくる。夜のホームには冷たい風が吹いている。あの流れに飲まれてしまえば、この素晴らしい夜風を浴びることもできないのだろう。

 私は人が嫌いである。友人や知人は「人」ではない。しっかりとした、「友人」「知人」というラベル付けがしてあるからである。「他人」もまた「人」ではない。他人とは、自分を起点としてある人との関係性を考えたときのみに生まれる概念である。そういう意味では、自分という限定された空間だけではあるものの、一種の繋がりがあるものと捉えることもできる。「あそこにいっぱい人が居るよ。」と言うことはあるだろうが、「あそこにいっぱい他人が居るよ。」とは言わないだろう。

 殆どの「人」が流れ切った後、私はエレベータを下り改札を出た。あれほどいた「人」は既に夜の街に消えていた。駅前には居酒屋やらその他の店がひしめき合っていた。煌々と灯っている店の明かりは、そこだけ夜の闇から切り離そうとする人間の意思すら、オレンジ色の光に湛えているようだった。きっとこの夜から逃げ、朝日が昇り次の一日が始まるまでの、ひと時の安息を求めて創り出した光なのだろう。月からは、この光がどのように見えているのだろうか。

 少し落ち着いた私は、自分がなぜ「人」嫌いになってしまったのか考えることにした。別段、他者とコミュニケーションをとること自体は嫌いではないし、苦手でもないと思っている。よくよく思いを巡らせてみると、私は「目的を異にする人間の群れ」が嫌いなのだという結論に至った。自分が本当にやりたいこと、進みたい方向、それらを悉く阻んでくるのが「人」である。更に悪いことに、彼らはいつだって自分勝手である。彼らには、自分たちが人間であるという自覚はないのだろうか。私が人の群れを、液体の流れであるように思ったのも、恐らく彼らが人間という意識を失っているからなのだろう。

 人間ではないなら、彼らは一体何なのだろう。そんなことを考えながら夜の街を歩く。家に帰れば、私は私を人間として認めてくれる家族がいる。少なくとも私自身は人間であるという自覚がある。しかしながら、もしかすると、誰かの目には、私は人間に映らないのかもしれない。人間に映らなくなってしまったら、その先のことを考えていたら、急に怖くなった。風が少しだけ強く吹いた。        

    

深海魚

雨が上がった夜の街を、私は走っておりました。アスファルトは黒々と濡れており、そこから立ち上ってくる冷気が足首にまとわりついてくるのを感じます。心なしか、浮かんでいる大きな月も水を湛えているようにも思えました街中が水気に満ち満ちていて、まるで深海の中にいるような、そんな夜でした。

 私はなぜ走っているのでしょう。自分では確かに理解しているはずなのですが、その時はどうしても思い出せないのでした。時折、私は深海にすむ魚とすれ違います。彼らはなぜ走っているのでしょう。どうでもいいことです。私は右足と左足とをせかせか動かすことだけに腐心しておりましたから、そんなことを考えている余裕などは無かったのです。少し走り続けていると、だんだんと両足を動かすという感覚が無くなってきたのでした。そうすると、私の意識は左腕と右腕を交互に振ることに移っていきました。

 人はなぜ走るのでしょう。人間以外の生き物が走るとき、それは何かに追われているときか、何かを追っているときでしょう。私も何かに追われているのでしょうか。或いは何かを追っているのでしょうか。人間でなければ、きっとそれは明確なのでしょう。それが明確ならば、生きるということはどれほど楽なことだろうかと思うのです。こうして何も考えずに走っておりますと、自分が一体何を目指し、何を恐れて生きているのか少しだけ分かるような気がしてくるのです。

 夜が濃くなるにつれ、街の水もまるで実体があるようにすら思えてきました。私の、両腕を振るという意識もだんだんと夜の中に消えていきました。感じるのは肺に空気が出入りする感覚と、両耳のイヤホンから流れる音楽だけとなりました。遂に私は、この夜の中を泳いでいるような気さえしてきたのです。そうしてきますと、一方で頭の中は澄み渡るほど綺麗になっていきました。波ひとつない湖の水面を彷彿とさせる静かな心。或いは深海魚たちは、このような心持で泳いでいるのでしょうか。

 泳いで、泳いで、私の行き着く先は一体何処なのでしょうか。心が静かになっていきますと、逆に頭の中にはいろいろな物事が、マリンスノーのように降って来たのです。その一粒一粒を、丁寧に掬い上げてじっくり眺めてみたのです。今私が立っている場所、目指しているもの、厭なこと、昔の記憶。その全てを拾い上げて考えることができるほど、その時の私には余裕があったのです。

 夜は益々その濃さを深めていきました。私は完全にこの夜を泳ぐ深海魚となりました。物思いは、留まることを知りません。或いは、深海魚とはもっとも偉大な哲学者なのではないでしょうか。そんなふうに思った、夜でした。               

染みつく。

名前の横に五桁の数字をサインする。これにより私は、人生の中の貴重な数時間を削り取って、労働という行為に身を投じることになる。
「こんばんは。今日も一日よろしくお願いします。」
 何度目だろう。決まりきった挨拶は、相も変わらず口から零れ落ちていく。習慣というのは怖いもので、作業のほとんどは深く考えなくても反射的にこなせるようになっている。それは時間の流れと経験の蓄積の産物だ。銀色のトングを鉄板に滑り込ませる微妙な角度も、トマトを小さな角切りにするときの力加減も、全てが費やしてきた時間の賜物だ。

 大学に入り一人暮らしというものを始めて思うことがある。時間の大切さ、である。バイトなんて行きたくなければ行かないという選択肢だってあるのだ。勿論それは、自分で稼がなくても生活が成り立つという大前提あってのことだが。その点では最大限バックアップしてくれている家族に最大限の感謝を送らねばならない。今日も単調な作業の繰り返し。仕切りに入れられているコーンの黄色は、飽きるほど見慣れてしまった。コーンだから黄色なのか、或いは黄色だからコーンなのか分からなくなって、思考が占領されて、オーダーミスをした。きっとこの店の床には、いつか割れた皿で指を切った私の血が染み込んでいる。
 だから、ますますこの時間が勿体ないもののように思えてしまう。学ぶことがないわけではない。しかし自分の本能が、欲望がそれを否定する。人間は欲望によって突き動かされる。仮に無欲でありたいと願い行動したとしても、一方で理想の自分を目指したいという欲望により自分が生きているという証明になる。これを私は、この世界の絶対的な真理だと信じて疑わない。であるならば、自分がやりたいと思うことを実行したほうがその物事に対する力の入り具合が良いのではないだろうか。それだけで生きて行けるなんて思っていない。それでもやりたいことがある。それは罪なことだろうか。
働き始めて一年ほどが経つこの店。今日もキッチンには吸い込み慣れた油の匂いが染みついている。家に帰ってもその匂いは、私の服にしがみついてやってくる。その服を引き剝がし、洗濯機に放り込む。シャワーを浴びてようやくその匂いが消えて、家に帰って来た実感が湧いてくる。これから私は何をして生きていこうか。シャンプーの香りをバスタオルでかき混ぜながら考える。自由な環境に近づけば近づくほど、自分が一体何に縛られているのか分かってくる。グラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。その冷たさに一瞬咽そうになる。ふと、あの油の匂いが鼻を掠めた。もしかするともう既に、私の骨の芯までその匂いが取り憑いているのかもしれない。                      

出会ってしまった芸術

突き刺すような鋭い音が鼓膜を襲う。閉鎖された暗く狭い箱の中。人々の叫び声。汗はあふれ出て留まることを知らず、滴が鎖骨まで滑り落ちる感覚を、確かに私の肌は感じ取った。六本の弦の上を、彼女の細い指が踊る。その指はあまりにか弱くて、自らがかき鳴らす音の重さに耐えかねて、今にも折れそうに軋みながらも辛うじてその形を保っている。

 

ずっと思っていた。音楽というものに関われないか、と。高校生までの私は、野球というスポーツだけに打ち込む生活を送っていた。音楽や文学に関しては、常に受け手側の立場だった。しかしながら、逆の立場になってみたいと思わなかったわけではない。時間さえ、時間さえあればと思いながらも、それでも野球は捨てられずにいた。

 

力強いドラムの音が地面を揺らす。やがてそれは私の足元から骨を伝い、肺の中の空気を振動させる。何度同じような場所に立っただろうか。しかし今は聴き手側としての自分だけがいるわけではない。黒く艶のあるベースのボディーが、照明を反射して一瞬閃いた。思わず目を瞑る。何かを為そうとすれば、同じ道を進む者との競争は避けて通れない。新しいことを始めたら、その分の劣等感を味わうことになる。そんなこと、とうの昔に嫌というほど深く刻み込まれたのに、それでも私は何かに縋っていたいのだ。しかしなぜだろう、この人たちからは、今までに感じたことのないものを感じる。自分が行動するための意思、それを後押ししているようだ。

 

曲がサビに差し掛かり、音圧の見えない壁が私を押しつぶす。目に映るもの、耳に聴こえるもの、肌で感じるもの、全てが絶妙な均衡を保っている。私は思ったのである。自分が音楽を奏でる側に立ったことが、この感情の根源にあるものだと。だからこそ、ここに立っている人たちと、自分との諸々の差が、圧倒的な音圧となって私を押しつぶすのだ。音楽だけではない。文学に於いてだって、自分が本当に憧れるモノは常に自分の中の越えなければならない壁となる。それに気づくことができたのは、やはり人との出会いなのだろう。

アウトロがしっとりとした余韻を湛えて、時間の上を滑っていく。刹那すら惜しい、まるで戦慄がそう言っているように聴こえる。鮮やかでいて、少し煤けたような色をしたライトが消えるのを見つめ、私は扉を開けた。出口ではなく入り口の、である。

何故書くのか。

白い球体は地を這うようにこちらに向かってきた。それは小さな砂の粒を弾き飛ばし、不意に飛び上がった。体が無意識に反応し、身構える。刹那、左肩に衝撃が走る。痛みは感じない。今、この痛みは感じる必要のないものだからだ。私の体に当たったボールは地面に落下してなお、弱々しく回転している。右手でそれを掴み、無駄のない動きで勢いよく放る。青空が見えたが、私はその青空を感じることは出来なかった。今、その青空は感じる必要のないものだからだ。左肩の痛みが、忘れていたように訪れた。よくよく考えてみるとこの一瞬の光景も、後から思い返すことによって感じることのできたもののような気がする。人間は目に見えていたとしても、あるいは耳で聞いたとしても、それに向き合わなければそれらを感じることができないのではないだろうかと考える。何か一つのことにしか感覚というものは向けられないように思う。音楽を聴くとき、ヴォーカルの歌声に集中しているとベースの音色が耳に入ってこないというようなことである。よく通る道の見慣れた風景も、飲みなれた水が喉を流れる感覚も、全て意図して感じようとしなければ特に意味も持たず過ぎていく。私は高校まで野球というスポーツに打ち込んできた。思えば野球というスポーツの中にも数えきれないほどの映像、音、匂いやら諸々が存在する筈なのだ。しかしそれらを明確に捉えることができたのは、或いはこれを書き起こしている今のような気がする。沢山の物事が存在するこの世界で、沢山の物事を感じずに生きていくのは非常に勿体ないことだと思うのである。さて、小説とは複数の感覚が同時に表れる場所でもある。普段なら何気なく過ぎてしまうような感覚も、文字に起こすことで共感することができるようになる。言葉を読むことで過ぎ去った感覚に浸ることができるからだろうか。であるならば、小説を書くには今まで見過ごしていた感覚と向き合うことが必要になる筈だ。きっとその程度のことでも世界とは広がるものなのだ。ならば私は物書きをしよう。白球を捕らえたときの手の痺れも、用具小屋の錆と湿った黴の混ざった匂いも、こうやって文字にすることで全ての感覚が鮮明に思い出される。きっとこれからも小説を書こうとするならば、自分の感覚と真摯に向き合っていくことになる。それは殆どの人が忘れていることだが、同時にかけがえのないものでもある。書くこととは、書くこと自体以外にも目を向けることが大切だ。事実、この一年で私の見る景色は大きく変わったと実感している。そして常に違う景色を見たいからこそ、私は書き続けたい。今までの私はそうして形作られている。

AKG20周年記念 『春』

私がその風変わりな少女と初めて出会ったのは、とある病院の中庭だった。

「この花は、何という花ですか。」

それが彼女の発した最初の言葉だった。

私は出版社に勤務している。昔から書き物をすることが好きで、いつかは小説家になりたいと思っていた。いや、今でも思っている。諦めなければ夢は叶う、なんて今ではこれっぽっちも思っていない。だが、諦めたら未来永劫その夢は叶わない。これは動かしがたい真実だ。だから望みのない夢でも縋り付くしかない。それでしか今の私は生きられない。自分よりずっと若い奴らが書いた小説をリライトするたび、何故にこれ程まで人間には才能の格差があるのだろうかと考えてしまう。

アネモネキンポウゲ科、イチリンソウ属の多年草。和名は牡丹一花、花一華、紅花翁草などで・・・」

少女の目が見開かれ、じっと私を見つめる。その表情には、僅かに驚きの色が窺いしれた。

しまった。誰もそこまで聞いてはいないではないか。また自分の悪い癖が出てしまったことに幻滅を覚える。これだから私の小説は面白くないのだ。余計なことを、要らぬ知識を盛り込むから文が濁る。

「双子葉類だ・・・よ。」

反射的に学校で習うことなら共感が得られるだろうと、双子葉類という言葉を加えた。且つ、堅い説明口調は距離を感じさせてしまうと思い、少し語尾を変化させてみた。我ながら最高に滑稽な状態になってしまった。最悪だ。これではただの変なオヤジではないか。少女は少し目を細めて、「詳しいんですね。」と笑った。心なしか嬉しそうに見える。こんな見ず知らずの男に花の名前を聞いて何が嬉しいのだろうか。いや、それとも単に馬鹿にしているだけなのだろうか。

「他に、他にこの花について知っていることはありますか。」

少女が半歩私に近づく。まるで犯人を探している刑事のように、少女の目は私を捉えて離さない。この花についての情報を一滴でも逃すまいと、全身で私が発する言葉に聞き耳を立てているようだ。赤い花が風で少し揺れた。私の言葉で、上手く届けば良いが・・・。

「語源はギリシア語で風を意味するアネモスから、稀にアドニスと呼ばれることがあるが、これはギリシア神話に登場する美少年アドニスが流した血から・・・」

何なのだろう。この少女は。何故か自分が追い詰められているような気がしてならない。この時間が永遠に続くのではないか。そんなぼんやりとした考えが、徐々に頭を支配していく。このまま時間は凄いスピードで流れていって、背中の影が伸びきってそれはやがて夜の向こうに掻き消されていくのだろう。呑まれるな。頭の中の病みきった妄想。それを拒むように私は大きく深呼吸をした。

「そして・・・毒があるんだ。」

私は、この花に関する最後の情報を少女に伝えた。厭になるほど長い時間だったように感じる。

春風に混じって、救急車のサイレンの音が聞こえた。

 

 

 

少女は画家になるのが夢だという。少し離れた、所謂田舎と呼ばれる場所から、ある程度名の通った絵画教室に通っているらしい。

少女は好奇心の塊だった。良い絵をかくためには、被写体についてできるだけ深く知ることが大切なのだと言った。だから、描きたいと思ったモノについては、その全てを知るくらいの興味を掻き立てられるらしい。それは私にとっての小説に似ている。書こうと思ったら、書くモノについてできるだけ深く知ろうと思うものだ。知って書いて、また更に知ろうと思える。何かを書くとはそういう事だと思っていたが、どうやら描くということも本質的には近しいものらしい。

「絵は平面でも、描かれているものには信じられない程の厚みがあるんです。それを描けるか描けないか。私は、私はそれを描きたいんです。」

少女は絵を描くということに対して、気持ち悪くなるほど真っ直ぐだった。少女の心の羅針盤は、寸分も震えることなくキャンバスに向かっているのだろう。私はなぜ少女がそれほどまでに絵を描くということに執着するのか、その訳を知りたくなった。そして知りたくなったから、書きたくなった。書きたくなったから知りたくなった。だからきっと、その風変わりな少女とはまた会うことになるのだろう。

中庭の噴水に留まっている烏が、嗄れた一声をあげると、雲の影が少女だけを覆った。

 

かくして、私はその少女と出会った。アネモネの咲く春に。

 

 

ー続ー