読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ことばの海

Twitter→@komatuuuu947頑張って書いてます。スター励みになります。コメント頂ければ幸いです。

百鬼夜行#3【序】

「匂い?」

村山は頬張ろうとした焼き鳥の串の動きを止めた。村山は会社の先輩にあたる。アルコールには強くないくせに、上司に小言を言われた日は決まって呑みに誘ってくる。彼が小言を言われない日はまずないから、断りでもしない限り僕に休肝日は訪れない。

「ほら、川って特有の匂いがするじゃないすか。」

どうやら今日は、担当している記事に文句をつけられたようだ。村山は確かにセンスがない。明確な改善点を示さず「なんとかならないのかね」とばかり言い続けている編集長もそれはそれで芸がないというか、部下を育てるのが下手という気がするが、村山に至っては本人が悪いというのが僕を含む同僚たちの見解だ。なんとかならないものか…って、どうにもならないだろうに。センスがないのだから。

「ドブ川みたいな嫌な感じの匂いか?」

「そうじゃなくて、僕の地元とかのまぁまぁ綺麗な川だってするんですよねぇ。わかんないっすかねぇ。」

ジョッキからビールを飲み干した村山は、どうやらピンときていないようだ。一応先輩にあたるのだから、村山さんとか村山先輩とか呼ぶのが当たり前なのだ。無論会話の中ではそうしているのだが、それにしても村山はいつまでたっても村山のままだ。

一昨日、関東地方は猛烈な豪雨に襲われた。各地で川が氾濫し、その光景はテレビで何度も映された。だからその話題についてあれこれ言っていた筈なのだが、一杯目のビールが運ばれてくる頃から既に話は脱線気味だ。まぁ、呑みの席の雑談なんてそんなものなのだろうと思う。

「わからんなぁ。そんな綺麗な川は匂いなんてしないだろ。川って言ったって、要は水だろ。水。俺の実家は割と田舎の方にあるんだけどな、そこの川は澄んでいて、匂いなんてしないぞ。」

恐らくあれは生活臭なのだ、と栗田鉄平は思う。空気中にだって微生物は居る。だったら、命の源と言われている水の、ましてや有機物やらなにやらをたっぷり含んだ川の水には、途方もないほどの生き物が生活しているに違いない。というか、実際に居る。生きているのだから、呼吸するし、物も食う。呼吸すれば穢れた空気を吐き出すし、物を食えば排泄もする。それらが混じり合って、川は形成されているのだ。匂って当然だ、と栗田は思っている。別に嫌いな匂いではない、言うまでもなく好きな匂いではないが。何というか、不快というか、不安を煽るというか、それでいて得体の知れない温かみのある匂いだ。逆に言えば、その匂いがするほど無数の命が川の中に蔓延っているということでもある。

「村山さん、それは都会の川に慣れちゃってるからっすね。都会の川の匂いがあまりにきついから、匂わないように感じてるだけっすよ。染まっちゃいましたねぇ、都会に。」

何だよそれ、地元に住んでる友達みてぇなこと言いやがって…と村山は枝豆を噛み潰しながら呟いている。

都会の川の匂いは、生活臭ではない。あれは余分なものが多すぎる、と栗田は思う。命ではない何か。それが含まれすぎているのだ。より命の匂いを感じ取ることができるのは、やはり田舎の川なのだ。あの川の中に足を入れる時、流れに沿って無数の命が肌の表面を駆け巡っているのだ。もしかしたら、毛穴から身体の内側まで侵食されているかも知れない。自分ではない他の命に自分を侵食される。これほど気持ちの悪い事はない。自分の中に入って来た命は一体何をしているのだろう、と彼は考えた。別段明確に目的など無いのだろう。それでも、他人を侵食するのが愉しいかのように、無数の命たちはやって来る。本当に侵食されているかどうかは判然としていないが。これは何も川だけに起こる事ではない。人間社会だってそういうものなのだ。ほとんど関係のない、名もない命が、常に誰かを侵食しようと狙っている。それが行き過ぎれば、削られ、削ぎ落とされ、そして死が訪れる。無数の命の中で、ひとつひとつ命が消えていくのは、川も人間社会も同じようなものだ。まぁ、だからなんだという話なのだが。

あぁ…

不意に村山が声をあげた。

「実家の近くの川にはな、河童が出るって噂があったんだ。どうだ、すげぇだろう。」

「河童…ですか?」

河童というとあの、胡瓜を食ったり相撲をとったりするあの河童だろうか。

「胡瓜食ったり相撲とったりする河童とは違うぜ。俺のところの河童はな、川に入った奴の脚を引っ張ってな、溺れさせちまうのさ。」

村山は酔いが回ってきた、と栗田は推理した。いつものことなので、凡そこの推理は当たるだろう。某少年探偵のようなセリフを使えば、真実はいつも一つ、それは村山が酔っている、という事だ。奴が家路につけなくなる前に、早いとこお開きにしておこう。

 

久しぶりの帰省である。栗田は今、橋の上から川の流れを見つめていた。環境が変わったからか寝付けずに、ふらふらと散歩をしていた。午前二時。川は墨汁を流したかのような真っ黒い色をしていて、心細い街灯に照らされてぬらぬらと不気味に光っている。見えないが、居る。そこには無数の命が流れている。

不意にガサッと音がした。

ー河童か…

村山の言葉に影響されるとは予想外だったが、川沿いの草叢から音がした時、反射的にそう思ってしまったのだから仕方がない。

俺を…引き摺り込もうとしているのだろうか…

引き摺り込まれたらどうなるのだろうか。まぁまず間違いなく死ぬだろう。川の水に溺れながら…無数の命が、身体中の毛穴という毛穴から侵食し、肉を貪り、血を啜る。口からだって、目からだって入ってくるだろう。そんな事を想像するのは、少し気持ち悪い。或いは、人は河童のような存在に出会う事によって、死んでいくのかも知れない。河童に出会う事で、否が応でも命たちの中に引き摺り込まれる。後は、その命たちが、自分の身体を侵食していくのをじっと、ただじっと、ひたすら待ち続けるだけの日々が訪れる。そしてその時は人生の中で、意外と早く訪れる。河童に出会うのは、子供の頃と相場が決まっているのだ。

でももし、本当にそうだったとしたら。そんな風に死んでいくのだとしたら。それは…

 

厭だな…

 

と栗田鉄平は思った。

 

 

 

ー河童ー

 

 

百鬼夜行#2〜時代が生んだ怪鳥〜

第2回は「以津真天」(いつまで)についてご紹介します。

以津真天が最初に登場するのは「太平記」の中の記述です。1334年、疫病が流行し、死者が多くでた頃に、巨大な怪鳥が現れます。その怪鳥は「いつまでも、いつまでも」と鳴き続け(そんなわけあるかいな)人々を恐れさせたのです。のちに怪鳥は退治されますが、そのころは特に固有の名前は与えられていませんでした。顔つきは人間のようだった、との記述もあるとのこと。

"以津真天"という言葉が用いられたのは、江戸時代。鳥山石燕という画家が、太平記をもとに百鬼夜行図を製作した際、その特異な鳴き声にちなんで名付けられたと言います。石燕さんは物好きですね。そんな石燕さんの絵、僕は大好きなんですけどね。

f:id:kameyama947:20160907145508j:image

昭和以降の妖怪関連の文献には「戦乱や飢餓などで死んだ死体を放っておくと、その近くに現れる」とされ「いつまで放っておくのか」との意で「いつまで、いつまで」と鳴くという性質が追加されています。また、正体は亡くなった人の怨念であるという解説もあります。ここでは主に、この昭和以降に追加された属性についてを主体として話を展開していきたいと思っています。

 

すべての怪異は意味があって成り立ちます。

それはこの怨念怪鳥くんも例外ではなく、こやつが成り立つための条件がいくつか存在すると思うのです。

1「死者の魂」という概念が存在する

2戦乱や飢餓などで、度々多くの人が死ぬ

3死者を葬るシステムが完全に行き届いていない

とまぁ、ざっくりいえばこの3つになるでしょうか。今でも死者の霊魂という考えかたはありますが、2、3の条件は現代日本においてはほぼ成り立たないと言っていいでしょう。すなわち、以津真天は前述の条件を全て満たせるような時代にしか存在することができないということになるのです。この妖怪に昭和以降に付与された属性がある限り、都会のビル群の上を悠々と飛ぶことも、誰もいない森の木の枝に佇むこともできないのです。これは時代の特色が色濃く反映された妖怪だったのです。当時の人々が、戦乱や飢餓に見舞われ、それを供養する場もなく、そしてなにより人間の魂というのも大切にしながら生活していたという事実が、以津真天には宿っているのです。(実際は昭和以降に付与された説明なので、その時代がそういうものだと考えられていた、という方が正しい)

 

このように、荒唐無稽な作り物と思われがちな妖怪という存在も、実は様々なものに縛られながら生きているのです。そして今回の以津真天は、人々の生活や風習、特に「時代」との関連性に強く影響されて生まれた、そんな妖怪だったのです。

 

読んでくださいましてありがとうございます。

よろしければ、また次回。

 

お知らせ

百鬼夜行シリーズは【序】という短編で紹介する妖怪のお話をした後、考察の部分を投稿する、という2部構成でいこうと思います。

よろしければ、是非。

百鬼夜行#2【序】

戦があった。

さほど大きな合戦ではなかった。それでも人が争えば死人も出る、死人が出るから悲しむ者も出る。

嘆かわしい事だ…

玄海は思う。仏門に入り3年。それなりに村の者にも慕われてきた。玄海はそこそこの規模の村の、これまたそこそこの大きさの寺の住職をしている。宗教とは民を導き救う役目を担っている、というのが彼の考え方だ。本当に仏がいるとか、加護があるとか、そういったものは二の次だ。宗教を信奉することで少しでも前向きに、あるいは少しでも安らかに暮らすことができればそれでいい。仏などは、見たいと思う者が勝手に見るもので、居ると主張する者がいればそれでいいし、居ないと主張する者が居てもそれはそれでいい。要は何か拠り所があれば良い。

だから玄海には仏は見えない。見たいとも思わない。玄海はただ、自分の言葉で人々を救いたいだけなのだ。僧侶という肩書きは、その言葉の救う力を増幅させるための一つの道具にすぎない。村の者たちは、仏の言葉だと信じて聞いているのだろうか。だとしたら私は…私は偽物だ。いや、偽物だっていい。それで誰かが救われるのならば。

「先生、玄海先生」

村長の嘉助である。玄海は住職として務めるだけでなく、村の者に読み書きを教えている。ゆえに先生と呼ばれるのだ。おかげで寺はいつも賑やかである。

「ようやく収まったみてぇだが、みんなやられちまっただよ。仲間が死んでるところを見るのは、生きてる村のもんも辛ぇだろうよ。どうしたらいいだかね、先生。」

玄海には妖怪が見える。見ようとしているから見えるのだ、と彼は思う。そう、思い返せばそれが目的だったのだ。僧になれば、妖怪やら怪異やらを鎮めるために呼ばれるのではないか、そして古今東西の怪奇出会えるのではないか…そう考えたからだった。気味の悪い趣味である。が、そんなことは殆どなかった。だからといって興味は尽きた訳ではない。本当に偽物の坊主だなぁ…と思う。

「私が全て弔います。お亡くなりになった方々を、寺まで運んでいただきたい。」

「わかっただ。だども、村の西の方は殆ど生きてるもんが居らなんだ。人手が足りないだよ。」

村の西側は元々人が多かった。だから人が多く死んだのだ。胸が痛む。人の死は、誰だって目の当たりにすればつらい。

「そちらは私も手伝いましょう」

夕日の見える西の空を見上げると…

鳥が飛んでいた。大きな鳥だ。聞いたこともないような不気味な声で啼いている。三羽いるだろうか。彼らは村の西側の、ちょうど死人が沢山出た村の西側の空を気怠そうに旋回していた。

「なんだぁ、あの鳥は。見たことがねぇ…不気味な鳥だなぁ。」

鳥は相変わらず啼いて…いや、泣いているように聞こえる。遠くてはっきり見えないが、なんとなく顔も人の面のように…見える。今の刻限は逢魔時といって、人外のものに出会ったり、怪異に見舞われたりしやすくなる時間で…いや、そんなことはどうだっていい。今は目に映るあの鳥のことだけを考えたい。私はあの鳥を知っている。見たい、もっと近くで。彼は、そう彼らは…。

「あ…あの鳥は。間違いない。」

 

    ー以津真天ー

 

 

分岐器の人たち。

あぁ、この人に出会ってしまったから自分の人生が変わったのだろうなぁ…という人たちは意外と多くいる。人生を左右する、というとそれは言い過ぎだとは思うが、それでもこの人と出会わなかったら絶対にいまの自分を作る要素の、少なくとも1つは欠落していただろうなぁと思う人は居るのだ。だから、まるで線路の分岐器ようだ、と陳腐な比喩を用いてみたわけなのさ。

 

というのも、今日久しぶりに分岐器のひとりと言葉を交わしたから、こんな思いに駆られているのかも知れない。振り返ってみてもその出会いが良かったのか、悪かったのか、そこの所は未だによく分からない。分からないが、良い出会いだったのだと信じたい私がそこに居る。それで充分だと思いたい。充分だと思っていれば良いんじゃないかな。

 

自分は自分で作られているようで、多分皮の内側には今まで他人から得てきた言葉やら、知識やら、記憶やら、もう何なのか判然としない塊やらが、ドロドロとスープのように溶け合って詰め込まれている。他人無しに自分を語ることはできない。他人がいなければ自分を証明してくれる人は居ない。しかし、他人と自分を分断している何かは恐ろしく有能で、何物も通さないようにできている。そんな不安定な自分という存在は、同じく不安定な他人と共鳴して、混じり合う一歩手前まで進んで、お互いを変えていくのだろう。

 

私にとってあの人は、どういう人だったのか。それは誰にもわからないのかも知れない。でもあの人が居なかったら、もしかしたら…

そして私が居なかったなら、誰かの人生の何かは、今あるカタチとは違ったものになっていたのだろうか。

そんなことを取り留めなく考えてた、過去に想いを馳せる。

 

そんなことしても、何も意味は無いんだけどさ。

百鬼夜行#1〜見えないものを見ようとして、彼らは鬼を創り出した〜

皆さん、妖怪や幽霊は好きですか?

彼らにも存在する理由や、生まれてきた意味があります。それを考えていくと、彼らのことがもっともっと好きになっていくと思うのです。という訳で、しばらくシリーズ物として、妖怪や幽霊について書いていこうと思います。え?興味がない?ははっ、ご冗談を。

 

さて、初回は「鬼」についてです。鬼というと皆さんはどういう姿を想像しますか?桃太郎に出でくるような、ツノが生えていて虎皮のパンツを履いていて…というものが、現代人の鬼に対する最もポピュラーなイメージなのではないでしょうか。しかしながら、鬼には様々な形態があります。

 


【1.民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
2.山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼、例、天狗。
3.仏教系の鬼、邪鬼、夜叉、羅刹。
4.人鬼系の鬼、盗賊や凶悪な無用者。
5.怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。】

(Wikipediaより引用)

これは文芸評論家の馬場あき子氏による鬼の分類です。

鬼という存在は非常に幅広く、姿形にも様々なものがあるということが分かります。そもそも鬼のルーツは中国で、分かりやすくいえば怨霊や悪霊のことを指す言葉だったようです。しかしながら、それが仏教陰陽道と結びついた結果、様々な形態の鬼が日本で生まれたのです。

 

と、難しい話になってしまいましたが、ここまでは「鬼は様々なものと結びついて、いろいろな形態ができた」ということを取り敢えず分かっていただければ十分です。実際私もよく分かっていませんから…笑

私が考えていることは、なぜ鬼が必要だったかということです。なぜこれだけ多種多様な場面に、それこそ売れっ子芸能人のように鬼が使われたのか、そこが今回のポイントです。

まず少し前の話に戻りますが、鬼は元々悪霊や怨霊などを指す言葉でした。日本に鬼という言葉が入ってきてからも、しばらくはその使い方をされていたのではないかと思います。ここでの鬼の属性は怨霊や悪霊と同じで「怖い・悪い・怒りや悲しみを抱えている・人ではない」というものだと思います。そしてもう1つ重要な属性があります。それは「目に見えない」ということです。目に見えないということは、鬼に姿形の定型文がないということです。すなわち、イメージする人がいればいるほど姿形に種類が生まれていくのです。

そして、持っていた属性もフルに活用されます。最初の鬼の分類を見てください。どうですか?鬼の元々持っていた属性の少なくとも1つに、各分類の鬼が当てはまりませんか?例えば「悪い」という属性は、仏敵、あるいは桃太郎の鬼のように退治される対象になります。また「人ではない」という属性は、鬼のように強いという言葉のように、まるで常人ではないかのようなという表現として使われます。

そしてその全てが、元々形のないものなのです。宗教系であれば想像のものですし、鬼のような〜という言葉も目には見えません。鬼を見た!という話もありますが、恐らくそれは鬼以外の何かに鬼を投影したもので、それはその見た人の恐怖から生まれるものであり、これまた目に見えません。すなわち、様々な種類の鬼は「目には見えないが、見えないままでは困るものを補完するために生まれた」と考えることができると思うのです。もちろん、上記の属性から外れてはいけない、という制約はあります。それがなかったら別に鬼じゃなくてもいいので…

少しお話をします。

あなたの家の近くに「夜に通った人が忽然と消えてしまう橋」があります。なぜ消えるのか理由は一切分かりません。あなたはどうしますか?調べても理由が分からなければ、恐らくその橋を夜間に通ることを避けなければいけないでしょう。では、その理由が「通った人を鬼が食べているから」だとすればどうでしょう。あなたには新しく、鬼を退治するという選択肢が生まれます。

そうです。見えないまま、理由が分からないままだと、どうすることもできない事というのは、世の中にたくさんあります。それを補完する意味で、鬼は生まれたのではないでしょうか。現在ではこのポジションの一部を、科学が担っています。ある事象に理由や原因を付与することで、対策や付き合い方、あるいは安心が与えられるということは、多々あることです。

 

この考え方は、色々な妖怪や幽霊の生まれた理由に関わってくるものだと思います。今回の鬼は、色々なパターンがあったので分かりやすいと思い、取り上げさせて頂きました。基本、私の妖怪や幽霊に対する考え方は、このようなテイストが入っているものとして読んでください。

 

次回からは、個人的には好きな魑魅魍魎たちを取り上げていきます。よろしかったら是非、また次回。

 

 

旅立つ夏への手紙

なんとなくだるい。

夏はそんな季節だ。

半透明な薄い膜が、絶えず身体を覆っていて、その膜の中には、自分しか感じえない暑さとだるさの入り混じった液体とも気体ともつかぬ何かが、まるで浮遊霊のように漂っている。その膜は破れることはなく、いつまでも不快な何かを湛えている。

そのくせ、太陽の光はその膜をすり抜けてやってくる。光は身体に音もなく入っていく。火照った肉からは、汗が逃げるように去っていき、垂れた雫はアスファルトの上で灼かれていく。アスファルトを黒く濡らしたその汗も、押し寄せる日差しの波に飲み込まれて消える。まるで自分が、夏の意思に従わされ、夏を体現しているかのようだ。

遠くで聞こえる誰かの声も、夏の前に脆くも崩れていく。自分の思考も記憶も、汗と一緒に流れ出しているのだろうか。

身体を焦がす赤い昼間と、蒸されるような箱の中の夜を幾度となく越えていくうちに、気づくと、夏は遠くへ旅に出てしまった。

さようなら。また会う日まで、お元気で。